昨日読んだニューマンの Promethean Ambitions の第四章は、久々に読む思想史の傑作であり、ページを繰るのがもどかしいほど興奮した記述だった。内容は、現在の生命倫理の一つの焦点である、人造人間と試験管ベビーは、少なくともその構想については、古典古代から中世イスラムやユダヤ思想を経てパラケルススにいたる、1000年から2000年もの歴史を持ち、そこに横たわる科学と倫理の原理については、現在の我々の議論と大差ないということである。
古代と中世のテキストについての学識、そして、そこに横たわっている、現代と通じる倫理的・思想的な問題が、まるで透けて見えるかのような明晰な記述。「こんな当たり前のこと、古代と中世のヨーロッパ人が考えて当然のことを、なぜこれまで自分は気づかなかったんだろう」と思わしめるような、説得力がある説明。生殖技術だとか試験管ベビーだとかサイボーグだとか、そういうことに関心を持っている人すべてに読んで欲しい記述である。
中世イスラムの人造人間の説話を知らないのは仕方がないが、「医学と技術の進歩にともなって、20世紀には試験管ベビーやロボットなどの問題が表れ、それに対する倫理的な考察が現れた」などとぬけぬけと書いていた自分の愚かさが心の底から恥ずかしい。 この書物を読むと、生命倫理の問題は、ヨーロッパ文明の伝統の中心で育まれたということが納得できる。
アリストテレスのような、生殖に必要なのは男性の精子だけで、女性はそこに質料を提供するだけだという生殖観念が主流であった文化の中で、男性の精子を何かの物質の中で育てて人造人間(つまり「試験管ベビー」)が形成されるという構想が現れるのは、きわめて自然である。神が人間を土くれから創造したという神話を持つ宗教の中で、土くれから創造されたユダヤ教のゴーレム(つまり「ロボット」)が構想されなかったわけがない。そして、こうやって作られた人造人間たちを、医療目的に使うためにその臓器を採取すること(「臓器移植」あるいは「生き胆」)も、構想されて議論されなかったわけがない。 深い学識と的確な分析に基づいた独創的な歴史の研究は、「言われてみればあたりまえ」なものであるという思いを改めて深くする。
一撃で私の歴史観を改めた書物だった。 古代と中世のオブスキュアなテキストを読み解いて、その意味を説得力がある仕方で説明してくれる優れた学者がこの世にいることは、なんと幸せなことだろう。