「健康青森県」の建設

必要があって、戦時期日本の健康政策の研究を読む。文献は、川内淳史「戦時期地域医療の”経験”-『健康青森県』の成立と展開-」浪川健治・河西英通編『地域ネットワークと社会変容』(東京:岩田書店、2008)427-457.

戦前から戦中期にかけての日本の医療体制の再編が、戦後の日本の医療体制の基礎を作ったという議論があって、その研究視点の流れの中で、1930年代から戦中期の青森県の医療と保健の再編を検討した論文。明治期には天然痘やコレラなどの急性感染症対策が中心だったのが、大正期には、慢性感染症が問題になった。まず第一のきっかけは中央政府の方針であった。1919年には結核予防法とトラホーム予防法ができて、青森もそれに基づいてトラホーム対策を推進させていた。第二に、1930年代の東北の凶作と貧困・不健康が全国メディアで報道される中で、その深刻さが青森でも取り上げられることが、衣食住衛生・文化の向上などをめざす運動が自発的に起きてきた。これは、衛生に対する関心の高まりであり、1938年には県知事は「トラホームは青森県最大の恥辱である」と発言し、問題を認識し、それに立ち向かうことを地域の課題とした。1940年代には大政翼賛会が作られ、その県支部は「健康青森県」の建設をうたった。医師会、歯科医師、薬剤師、産婆会などを統合した医療保健行政の一元化であり、十分な数の医師を確保するために青森に女子医専を設置するなどの活動が、弘前市の鳴海康仲を中心にして進められた。1942年に厚生省によってはじめられた県民運動は青森でも展開した。この時に、青森はたしかに寒冷や栄養の不調、文化の遅れなどがあるが、忍耐力があり、行動が荘重であり、飢餓や粗衣粗食に耐えることができて、このことは戦時の日本では大きな美徳になる。すなわち、東北は民族的にその「若さ」を保有しているという美点をもち、あるために、日本の命運は青森などの東北にかかっているのである。東北、その不健康問題を克服することで、地方のアイデンティティを形成して生かしながら、日本を牽引できるのであるという形で郷土意識を発動させていた。

著者が直接的に強調していた点ではないが、当時の人々が、東北の多産多死・貧困に慣れていることを「民族の若さ」と捉えていて、進化論的なヴォキャブラリーを使って政策を表現している。<政策に用いられそれを分節化した医学言語を用いた比喩>という問題をぽつぽつと調べようとしていて(こういったものは、調べるものではない)、なるほどね、県民性を表現するにも使われていたんだ。