美馬達哉「軍国主義時代―福祉国家の起源」

美馬達哉「軍国主義時代―福祉国家の起源」佐藤純一・黒田浩一郎編『医療神話の社会学』(東京:世界思想社、1998), 103-126.

著者は一流の医科学者でもあると同時に、医療についてのSTSや社会科学・歴史社会学の分野でも優れた仕事をしているという才人である。概念装置のまとめは小気味よくキレがあり、具体的な記述もそれに従って整然としている。それが整然としすぎているところをくさす人文社会系の研究者もいるけれども、私が知る限りでは、そういう批判をする人は雑然とした知性の持ち主だという印象を持っている。

福祉国家の神話を検討し、その次に福祉国家批判の神話を検討する。そのうえで、歴史的に実在する福祉国家を取り上げる。日本で医療側面の福祉国家の装置が形成されたのは、軍国主義のもとで「総力戦体制」が整えられる時期である。革新派の新官僚たちが陸軍からの要請を利用しながら厚生省を設立し(1938年)、医療全般の国家統制をすすめる国民医療法を制定し(1942年)、医療の民友国営を進めてきた。そのためのしかけとして、国民健康保険(1938年)、保健所(1937年)までの制度も整えられ、1940年には国民体力法を通じた健康診断のメカニズムもはりめぐらされた。すなわち、日本の医療保険システムは、戦時下1940年頃を境として質的に変化(断絶)したこと、戦後の福祉国家の制度的基盤は、占領軍による民主的な改革ではなく、戦時下・総力戦体制化での医療制度の統制である、という。

この文章が書かれた当時には、きっと新鮮な議論だったのだろう。いま読んでも、優れた分かりやすいまとめだと思う。しかし、対照の設定を間違えたような気がする。この議論の対照として設定されているのは、「すべての良い方向への改革は戦後のGHQによる占領から始まった」という議論であり、この議論は、基本的に、誰も唱えていないモデルである。ここは、もっと踏み込んで、「すべての良い方向への改革は、広義の社会主義的な思想をもつ、あるいはそれへの傾斜をもつ人々によって始められた」という言い方をすれば、川上武や杉山章子など、美馬が念頭に置いている人々の主張を包括的にまとめることができる。そして、このステレオタイプと正面から議論するということになると、荒々しく、猛々しく、尖鋭な議論になっただろう。