『モロー博士の島』


H.G. ウェルズ『モロー博士の島 他九篇』橋本槇矩・鈴木万里訳(東京:岩波書店、1993)
必要があって、ウェルズのSFの古典『モロー博士の島』を読み直す。話は有名で、モロー博士が南海の孤島で動物から人間をつくるという設定である。当時の問題や不安が詰め込まれた短編で、イギリスでは特に激しかった動物の生体実験への反対、植民地支配の問題、そして文明社会を脅かす「退化・変質」の問題がある。実は、今回はじめて気がついたのだけれども、「痛み」の表現をどう解釈するか、痛みはどんな機能を果たしているのかも大切な主題だった。

これは私の印象にすぎないけれども、ここで描かれているのは、人間と動物の関係というよりも、人間と下等人間の関係、より直接的に言えば、ヨーロッパ人と熱帯の原住民の関係であると思う。動物を手術して人間に改造し、掟によって人間らしくして、モロー博士を神(主)とあがめさせて文明らしいものを築いているが、この支配が崩壊したときに、原住民の中から敵が現れて暴動にいたる。これは力によって防がれるが、最終的には原住民は退化して動物に戻っていくというのが、メインのストーリーである。

以下抜書き。

主人公は島で「未開人」と思ったものを見かけ、彼らは身体をゆすって踊り始め、口からは「アルーラ」「バルーラ」というような歌が流れ、目が妖しく輝き、口からは涎が垂れる。そして、「これらの謎の儀式に熱中している連中は、ひとり残らず、みすぼらしい衣服や人間に似た身体つきにもかかわらず、身のこなしや顔の表情その他に豚を思わせる特徴、まごうかたなき獣の印があらわれていた」 254 未開と動物の重なり合い。特に忘我的な宗教・儀式。

復唱しながら彼らは左右に体を揺らし、腰に手を当てて拍子を取っていた。私も真似をした。まるですでに死んであの世にいるかのようだった。暗い小屋、グロテスクな者たち、所々に薄明かりが差しこんでいる。全員が調子を合わせて体を揺すり、連唱している。
「四本足で歩くなかれ、これ掟なり。我らはニンゲンならずや・・・」
「水を啜るなかれ、これ掟なり。我らはニンゲンならずや・・・」 272

「主の家は苦しみの家なり」
「主の手は創る手なり」
「主の手は傷つける手なり」
「主の手は癒す手なり」 273

「我々の意見が分かれるのはこの苦痛という問題点だ。目に見える、あるいは耳に聞こえる苦痛というものが君の胸を締めつける限り、あるいは自分の苦痛に左右される限り、苦痛と罪を結びつけて考える限り、君自身が動物がどう感じるか分かったつもりの動物なんだ。」
[モローは小型ナイフで自分の膝の一か所を突き刺す]
「こういうのを見たことあるだろう。少しも痛くない。というのは痛みは筋肉の部分には不要なのだ。皮膚には痛点が、ほらこことここに少しあるがね。苦痛というのは本能的防御の役には立つのだが全身にあるわけじゃない。たとえば視神経なんかには本当の意味での痛みはない。視神経を突いてみたまえ、ただ閃光を感じるだけだよ。聴覚をやられると鼓動が聞こえるのと同じでね。(中略)人間は知性的だからそれだけ危険を予知する能力も備わっており、痛みのような本能的防御は必要としない。無用なものは遅かれ早かれ消滅するというのが進化の論理だ。」 289-90

雌の動物人間は、「自分たちのみっともない恰好に本当的に気づいて、きちんとしたおしゃれな服装に対して人間以上の関心を示す」302 

ムリングの無残な死体を彼らが処分しているのを見ていると背後で足音がした。ハイエナ男が立っていた。彼は私を睨んだまま拳を固めてじっとしていた。私が振り向くと、目をそらし、背をかがめてじっと待った。
 私は相手の目を見つめたまま鞭を手放してポケットの拳銃をつかんだ。私は島に残ったもっとも恐ろしいこの相手が先に攻めてきたら即座に射殺するつもりだった。彼は生き残った者のうちで最も恐るべき相手であった。私は気を取り直して叫んだ。
「敬礼!お辞儀をしろ」
彼は白い歯を見せて唸った。
「そういうおまえは何様だと言うのか・・・」と彼は答えた。 338-9

[動物人間の退化の]変化はゆっくりと否応なく進んだ。彼らにも私にも明確な衝撃はなかった。私は相変わらず安全に彼らと交友した。退化が急激ではなかったので、次第に人間性を駆逐していく動物性が急に爆発するような期間はなかった。 349

私自身も変わった。衣服は黄色のぼろになって垂れ下がり、隙間から日焼けした肌が見えた。神は伸びてマットのように絡まった。現在でも私の眼は奇妙な光を放ち、身のこなしが素早いと言われることがある。 350

突然、踏み荒らされた空き地に出て、酷い光景を見た。私の犬は横たわって死んでいた。死体のそばにはハイエナ男が坐りこんでまだふるえる死体をつかんで噛み切り、喜びの唸りをあげている。私が近づくとギラギラした眼をこちらに向けて、血で汚れた歯をむき出し威嚇の唸りをあげた。恐れも恥じもない態度だ。人間性のかけれも残っていなかった。私は一歩進み出て、立ち止まり拳銃を出した。ついに対決の時がきた。 351-2

そういうとき私は周囲の人々に恐怖心を抱くのだ。明るい顔、暗い顔、危険な顔、不安な顔、不真面目な顔といろいろだが、理性あるしっかりと落ち着いた顔は見当たらない。彼らの顔に獣性が現れて、モロー博士の島の堕落が英国全土で繰り返されるのではないかという妄想に悩まされる。 357

暗雲が心に垂れ込めると私はそこに[広々とした牧草地]に逃げ出す。風の渡る空の下の誰もいない牧草地ほど心なごむものはない。ロンドンでは恐怖心が耐え難くなるほど怖かった。 357

この作品は、とても映画的なスリルとアクションを持つ作品に仕上げることができるから、何度か映画化された(私は観ていないけれども)。画像は、1977年の映画化のポスター。