日の当たる道を歩いた精神医学教授


台弘「内村祐之―臨床家、研究者、指導者―」『臨床精神医学』13(1984), no.10, 1259-1265.
「日本の精神医学百年を築いた人々」というシリーズの中の一つ。東大精神科の教授職を追われた台弘が、先々代の教授である内村を語るという「濃い」企画であって、冒頭は、1950年代のことだとおもうが、台が内村に面と向かって建て付いたときに、当時の教授であった内村が台に向かって「君のような人の心のわからない者は精神科医の資格がない」と叱責するシーンで始まっている。ある意味で、一定の限定の中で、台が本音を語っている文章だと思う。

内村は内村鑑三の息子に生まれ、一高時代は野球部の名投手として鳴らし、東大の精神科を卒業後は、クレペリンのミュンヘンのもとで学んだあと、1927-36年は新設の北海道帝国大学の教授となり、1936-58年は東京(帝国)大学の教授となった。東大退職後はプロ野球のコミッショナーにもなった。精神医学者としては初めて学士院の会員にもなった。まさに輝かしい成功の人生であった。「我が国の精神医学の表街道を歩いた人」という評を台が紹介しているが、まさしくその通りである。

東大教授になればだれでも表街道を歩いたというわけではない。内村には「表街道を歩いた」という言葉がよく当てはまる。この点で台が比較しているのは、呉秀三である。呉秀三には、日本の地方部で私宅監置されている者たちを観察した『精神病者私宅監置の実況』という重要な著作があるが、これは、日本の精神科医療体系の後進性、特に地方部における惨状を告発する、アクティヴィストの書であった。その告発のベースには、当時の西欧ではすでに時代遅れになりつつあった精神病院至上主義に対する無邪気な信仰があったことも事実であるが、呉の著作には、精神病者が置かれている惨状をなんどかして改革せねばならないというアクチュアルな理想が溢れている。内村には、呉と似たような仕事をしている場合でも、そこには精神病者が取り扱われている現実を変えようという使命感がないというのが台の観察である。アイヌや八丈島・三宅島の精神病を観察すれば、そこにはみじめな小屋に監置された精神病者がおり、薄暗い部屋で呪術師が祈祷をするようなおどろおどろしい光景がある。呉秀三であったならば、この惨状に立ち向かわなければならないという状況においても、内村は冷静な学問的な分析に向かう。そこには、日本における劣悪な現実の改革よりも、アイヌのイムをクレッチマーのヒステリー論で分析して、ドイツの学界でクレッチマーに握手を求められる栄光を志向する学者らしさがある。精神医療が政治的にラディカルな改革の主戦場となった時代が来る前に東大を去った内村は、きっと、そのキャリアの終わり方においても日の当たる道を歩いていたのだろう。

画像は70歳にして投手をする内村。