国立療養所史研究会編『国立療養所史』

国立療養所史研究会編『国立療養所史』(東京:厚生省、1975)
明治以降の日本の医療や病院は、西洋の病院と大きく違って、もともと民間が担い手であった。公立といっても府県立や市立などの地方自治体が主力であったため、国立の病院や療養所の誕生は非常に遅れ、やや特殊な成立の過程をたどった。結核は、昭和12年以降に各地で急激に建設され開設された傷痍軍人向けの療養所が、戦後の軍の解体にともなって国立に切り替えられること、また、日本医療団が管理していた結核療養所が、戦後の日本医療団の解散にともなって、国立に切り替えてつくられたものである。日本医療団の管理下のもののうち、どれだけが法律で定められた公立(府県立)の収容所であり、そうでないものはどのくらいかということは、きちんと調べないとわからない。らいは、昭和6年の癩予防法が定めた国立の療養所群が、戦後の療養所の主体であった。

一方、精神医療・神経障害の国立療養所は、ほぼ純粋に軍の起源からなる組織であった。もともとは、軍人のうち神経・精神障害を病むものを後方に送った病院として国府台の病院があり、そこからさらに傷痍軍人として療養するべき存在として送った施設が武蔵療養所であった。この武蔵野療養所に、昭和20年の10月にできた肥前の精神療養所をあわせて、精神病の国立の療養所が作られた。いずれも軍の施設であった。

目を通していたら、大都市が必要とする望ましくないものを周縁地に押し付けるという事態があったので、メモしておく。「大正3年の結核の療養所の設置および国庫補助に関する法律で人口30万以上の市に対して、1/6から1/2の補助を国庫から行うことと定められたのを受けて、大都市は結核の療養所を設置した。これはもちろん開明的で、貧困のために私立の療養所などには入れない患者に対する人道主義的な配慮を持つ動きである。しかし、療養所の設置は、都市を維持するのに必要なのぞましくない施設を、都市の外部や郊外に設置することと並行して行われていた。大正5年6月の『東京朝日』は、東京府の多摩郡野方村(現在の江古田の附近)の農民の不満を掲載しており、そこでは、まずは落合に火葬場が作られ、次は上高田に、寺院や市ヶ谷の監獄が移転し、さらには塵芥焼却場が作られるという話もあったが、そこに、今度は市の結核療養所ができるというので、農民たちは強い不満を著したという。