Koya, Yoshio, “Sterlization in Japan”, Eugenics Quarterly, 8(1961), no.3, 135-141.
戦前の厚生省の健康政策の立役者であった古屋芳雄は、この論文が執筆された時期には日本医科大学の教授であった。その古屋が、優生保護法(1948)のもとにおける断種について論じた英語の論文である。
戦前の厚生省の健康政策の立役者であった古屋芳雄は、この論文が執筆された時期には日本医科大学の教授であった。その古屋が、優生保護法(1948)のもとにおける断種について論じた英語の論文である。
1948年の優生保護法で、遺伝病、精神病、らい病は、優生学的な理由で断種/不妊手術をすることが可能な疾病となった。それと並行して、妊娠が母親の生命に危険を及ぼす場合や、健康を損なう場合などについても断種/不妊手術を行うことができることが定められた。特に後者の「健康を損なう」というあいまいな書き方は、この条項が都合がよく解釈されることを招来し、中絶の経済条項と同じように、不妊手術を実質上なし崩し的に合法化することとなった。
そのため、1949年には年間で6,000件であった断種/不妊手術は1956年には年間で44,000件と激増した。49年から59年に合計で35万件の断種/不妊手術が行われていた。この数字だけでも吃驚するが、古屋が平然と書いている記述によると、これは優生保護法の指定医が行った数だけで、この3-4倍の断種/不妊手術が「闇」で行われているという。単純に計算すると、130万から150万件の断種/不妊手術が、戦後の10年間に行われたということになる。いくら信頼できる出所とはいえ、「それって、本当?」と聞き返したくなる数字である。
この35万件の断種/不妊手術のうち、優生学的な理由で行われたのは13,900件であり、残りは母の生命が危機にさらされた場合(16万)、家族のサイズを増やさないようにするため(17万)である。つまり、戦後の家族計画のために不妊手術が行われたことになる。そのため、不妊手術を受けた人々について子供の数を調べてみると、その数は3人に集中し、82%が2-4人に子供を持っているという。家族計画で「ストッピング」と言われる、それ以上子供を持ちたくない子供数に達した家族が不妊をしていた。ある意味で当然のように、男の子を持った夫婦は、不妊手術をする割合が高くなっている。
古屋は、さらに驚くべきことを書く。不妊手術を受けたもの性比である。女性の割合が高いことは予想できるが、95.2%から98.6%の割合で女性であるという数字は、やはり頭を抱えたくなる。この、男性の不妊手術ではなく女性の身体に改変を加えることで家族計画を実施するということは、多くの場合女性(妻)の合意は取り付けられているが、やはり夫がイニシアティヴを取ることが多かった。夫の不妊手術については、当たり前のように夫がイニシアティヴを取っている。
優生保護法は、中絶を合法化したということで、女性が身体の自己決定権を得たという側面は確かに存在する。しかし、不妊手術のデータが語ることは、日本が人口抑制策にはいり、個々の家庭が家族計画を実施するようになったときに、男性の身体と生殖能力が守られる一方で、女性の身体が改変されやすくなったということである。この圧倒的な男女の差があった背景には、「家」の制度と思想があるのだろうか。つまり、将来を見据えて家系を存続させる「家」の戦略の中で、この世代において子供の数が充足していたからといっても、何が起きるか分からないから、男性の生殖能力というのは最後まで保存されなければならない。実際、戦争によって、子供たちが全員死んでしまい、家が断絶した例という事例も当時の日本人は観ていたのではないか。そんなときにそなえて、家の男子の生殖能力は、最後まで保存されなければならない。しかし、女性の生殖能力は、家系にとって「かけがえのない」ものではない。だから、女性だけが不妊手術をしたのだろうか。いや、これは、ただの想像にすぎないけれども。