日本の精神医学と優生思想

橋本明「わが国の優生学・優生思想の広がりと精神医学者の役割―国民優生法の成立に関連して」『山口県立大学看護学部紀要』創刊号(1997), 1-8.
優生学と精神医学の関係についての仕事を読む。1997年ということは、この論文が出てから15年になるということなのかという中年的な感慨にふける。

日本の優生学の歴史において、1940年に成立した国民優生法はあまり効果がなかったことはよく知られている。断種手術をほどこしたのが、1945年までに454人という数字は確かに少ない。その状況の中で、本来主役になるべき医学の分科であり、ナチスの優生学では中心になっている精神医学がどのような貢献をしたのかという問題を論じようとしたのがこの論文である。

優生法と断種に対する熱烈な賛成は、東大の生理学の永井潜のように、精神医学の外から来ていた。精神医学の内部においては、反対の声が高く、賛成も消極的であった。反対の先鋒に立っていた警視庁の金子準二は、断種法によって、社会人は精神衛生を軽視し精神医学者に診断を仰ぐ人間が減ってしまうという考えを表明した。消極的な賛成派も、断種法の適用範囲となる病名を定めることが難しいことを指摘していた。しかし、1939年頃になると、精神病医たちも厚生省の関連も、断種法の制定には反対しなくなる。それとともに、東大精神科の教授であった三宅鉱一と内村祐之たちは、日本学術振興会における国民体力問題考査委員会・優生学部の委員長や、国民体力審議会の民族優生制度案についての専門委員会をつとめたり、八丈島をフィールドにして精神病一斉調査を行って精神病の罹患率や遺伝のパターンなどを調べる研究を行った。

そもそも精神医学は優生制度、断種法案に積極的ではなかったこと、優生学に直結するような遺伝を中心とする学問上の蓄積が薄かったこと、「精神障害者の断種ができる体制」になっておらず、国民の主たる病気であり重要な関心は結核などであったことなどが理由として挙げられている。

優生学という多様で幅広い営みを、その一つの要素であり断種から捉えて記述するという「倫理パラダイム」の中で書かれていて、この時期の優生学の歴史研究のほとんどが陥っている狭隘な視点であると私は思う。優生学というのは断種と安楽死を究極の方法として、子育て、結婚相手の選択、疾病の治療と予防、ライフスタイル、そして人口移動などに幅広くまたがったプロジェクトであった。寿命から疾病構造から生活水準から居住にいたるまで、激変した近代社会のダイナミクスの中で、人間の生殖と生活に到達しようとした生権力と言いかえてもいい。それを「断種」の視点からのみ論じるのは、事態の広がりを的確につかむ視点ではないと私は思っている。