詩人の金子光晴は、1928年から32年にかけて長い異国放浪の旅をした。中国、東南アジア、パリなどが中心で、その旅行や滞在のことを記した自伝的な文章の一つである。『マレー蘭印紀行』の出版は1940年だから、南洋ブームに便乗した出版なのだろうか。いくつかのポイントをメモ。
バトパハの日本人の歯科医の話から。南洋の日本人に「土着感」が薄いということ。そこにしっかりと根を張っている感がある華僑に較べて、日本人がその土地にいる仕方に「かりもの感」があるという。(72)これは、大東亜共栄圏の時代に南洋移民を構想されたときにも、「南洋に日本人が移民しても、そこで生まれた子供は日本の学校にやること、移民した日本人も働いたあとの老後は日本に帰ってくること」というのが一応の方針であったことと関係があるだろう。それを「かりもの感」というと、まるで悪いようだけれども、移動するメカニズムと定着するメカニズムの双方を持っているということなのだろうかとも思う。私自身がイギリスに留学して、イギリスに「骨をうずめる」かどうかさんざん悩んだが、結局は日本に帰ってきて仕事をしている。その一方で、外国の医学史研究者たちと密接に繋がっているという、移動―定着―連接というようなメカニズムをいくつか持っているわけでもある。
実は、金子自身のマレー蘭印地方での滞在と旅行も、「放浪」と呼ぶことが難しい側面を持ち、その土地の日本人の拠点を訪れ、日本人が経営しているホテルに泊まるというものであった。作品としても、ほとんどの素材が現地の日本人から得られている。日本人が経営するジョホールのゴム園や、スリメダンの石原鉱山などが滞在と記述の重点であり、天草・島原の女性が売春の「娘子軍」としてマレー半島の奥地に行かされた話は、日本人のホテルの女主人から聴いたものである。ちなみに、その女主人は、かつてはその「娘子軍」の一人であり、現在は日本人の売春婦が客と入るホテルを経営している人物である。
マラリアについて印象的な記述があったから授業用にコピーしておいた。ペンゲランのゴム園に行ったとき、金子はマラリアを恐れるが、その予防はもちろん罹患でさえ日常的な事件になっている現地の人々はさして恐れていないというような内容、そして、詩人ならではの、蚊のアノフェレスが熱帯の夜を人の血を求めて飛ぶありさまの想像力も冴えている箇所である。
日本の熱帯気候馴化についての研究を論文にしようとしている。いま調べたら、最初にこの主題で学会報告をしたのは2006年だから、今から7年前とか8年前である。これは、いい加減に形にしなければならない。