神話的な快楽と身体と性―『遊仙窟』を読んだ

張文成 『遊仙窟』  今村与志雄訳(東京:岩波書店, 1990)

『遊仙窟』という作品は、どこかで書名を聞いたことがあるはずだが、意識していなかった作品である。中国は唐代の伝奇小説で、主人公が旅をして深山にはいり、そこで仙女の十娘(じゅうじょう)と、その嫂の五嫂に歓待され、十娘と交わって歓楽を尽くし、翌朝去っていく物語である。もともとは中国の作品で、日本には奈良時代に伝わって、文芸に大きな影響を与えた。その解釈は露伴の「遊仙窟考」なる評論などで論じられている。(私が『遊仙窟』を読んでみようと思ったのも、露伴の評論を読んだからである。)中国では原文は散逸してしまい、日本にのみ稿本があり、魯迅が日本に留学した時にこの作品を発見して中国に伝えたという。中国の作品が日本で保存されて逆に輸出されたことになり、平安期に中国のあまたの医書を写本した『医心方』が、中国に現存しない医書の内容を記しているので、中国でも『医心方』が資料として重視されていることに似ている。

 

この岩波文庫は、日本の中国文学研究の高い水準を遺憾なく発揮したもので、その翻訳、訳注、そして重要な「影印」も添えられている。私などにはあまりに贅沢な仕事である部分も多いが、こうした書物を文庫で持つことができる文明国の恩恵に感じ入るばかりである。私の紹介ではその贅沢を伝えられないが、果物の「棗」(なつめ)を、それと同じ音の「早」にかけて、「早く恋愛に落ちましょう」という誘いの言葉に使っている詩を、棗の英語の date にかけて、「早くデーツしなかったこと」と訳しているのは、思わずうなるほどの訳の工夫である。

 

作品としては、現在の読み手が罪の意識を感じるような名作である。もともと、文人貴公子の性愛の妄想をはばたかせたもので、出会う女性はみな自分に恋をしていて歓楽の宴と性愛に向かっていくという趣向である。旅先の男性がその場で会った女性たちを性的に征服していくことが主題であって、ポリティカル・コレクトネスの観点にたてば、発禁にしてもいい(笑)それを断ったうえで書かせてもらうと、その記述はまさに世界中から性と感覚の快楽の素材が集め尽くされたような宮廷の美学であり、読んでいて思わず陶然となる。エロ小説とも言われるが、実際の性行為の部分はごくわずかで、全体には、出会いから、食と酒の宴、歌と音楽と舞い、庭園での感覚の誘惑、そして最後に閨での駆け引きと性の営みと、快楽の洪水である。その快楽は、唐帝国の各地から集められたものもあるし、神仙の世界から、あるいは想像上の動物や植物が提供する。その底辺にあるのは、生身の肉の性の快楽であり、それが示唆され、視線で言及され、駆け引きが行われ、じらされて、快楽の興奮が高まっていくようなクレッシェンドである。神話が精気になって肉に結集していくかのような感覚である。学問的なことを言えば、身体のこのようなありかたは、たしかに古代と中世のものであり、近代以降のものとは大きく違うと思う。そこでは性とその動物的な攻撃性と女性の搾取は、神話の美によって完全に覆い隠されてしまう。無粋なことだが、若い男性には、悪い影響があるから、読ませるべきではない(笑)

 

古典的なエロティックな作品、たとえばオヴィディウスや『カーマ・スートラ』やアレッティーノなどは、色々な理由でわりと良く読んでいて、それぞれ感銘を受けているが、『遊仙窟』は、必ず読まなければならない作品だと思う。