尊敬する医学史の研究者に勧められて、吉村昭『破船』を読む。1982年に出版され、Kindle で読んだ。ミステリー小説ではないが、以下の記事にはネタバレがあります。
江戸時代の孤立した村に天然痘が侵入した悲劇を描いた作品である。吉村の作品だから、ある程度の史実を踏まえているのだろうし、村の生活や信仰の描写には歴史的な確かさを感じさせる(私は専門家ではないので確実なことは言えないが)。しかし、物語の中核にはる天然痘の伝播のかたちについては、理論的にはありえるが、きわめて例外的な事態であるし、必ずしも説得力がある設定には思えない。
時代は江戸時代、舞台はある島の海岸沿いの狭い土地でぎりぎりの生活をしている小さく貧しい村である。戸数は17戸と記されているから、人口は100人程度であろう。米を作ることができないので、村の産業は漁業と塩焼きである。季節によって蛸や烏賊やサンマなどが獲れ、それを港がある隣村に運んで売って生活物資を得て、ほそぼそと暮らしている。貧しいため、男も女も奉公や身売りをして村を一時的に離れることが多い。主人公は若い男性で、彼の父親も隣村に身売りに出て村を離れている。村の具体的な地名は記されていないが、西廻りの廻船が通るという記述があるから、佐渡などの日本海の島に設定されているようである。
この貧しい小さな島に、数年に一度非合法で血塗られた富をもたらすのが、「お船様」である。嵐で船が難破すると、その積み荷を奪って村人の間で分配することが長く行われていた。米や砂糖や生活用品などの物資が突然潤沢になり、日頃はぎりぎりの生活をしている村人からみると目がくらむような富が手に入り、数年間はまともな暮らしをすることができる。廻船を難破させるために、嵐の夜には、船を岸辺に呼び寄せて岩礁で難破させるために、塩焼きをかねて夜の浜辺で火をたく。その火を目当てにやってきた船が難破して、乗組員が生きていた場合には、全員皆殺しにする。このような残虐な略奪が、貧しい寒村の生活の手段となっている。
あるとき、お船様を難破させて、乗組員を殺してその積み荷を奪ったあとに、もう一隻のお船様がやってくる。この船はいつもの船とは様子が違い、積み荷はなく、別の村で天然痘にかかった患者たちを船に乗せて海に流して追放したものであった。天然痘の悪鬼を追い払う色であった赤い色の衣を着て、猿の面が置かれていた。船上の人々はみな死んでいたが、身体は一面の瘡で覆われていた。村の人々はその状況が理解できないし、その病気が何かも分からなかった。その村は、周囲とあまりに隔絶されているので、天然痘を経験したことがなかったからである。あるものが、遊女と性交すると罹るといわれている梅毒ではないかといい、その解釈が受け入れられた。船にあった赤い衣は、梅毒は移らないからということで、村人たちに分け与えられた。
その衣から、天然痘が村に爆発的に広まった。それまで天然痘を経験したことがないから、子供だけではなく年寄りも発病して、村おさも罹患したし、主人公の母親も罹患した。死者も数多く出たし、生き残ったものも失明したり顔があばたで覆われたりした。その頃には、これは「もがさ」という病気だろうということもわかった。生き残ったものも、「山入り」と称して、これ以上病気を広めないために、山に追われて生涯を送らなければならないことになった。
貧しい寒村の残虐な略奪の生活を描き、ある意味でそれがもたらすことになった天然痘の流行を描いた作品で、面白いと思う人もいるだろう。
私が疑問を感じるのは二つの点である。まず船に患者を載せて海の上に追放するという行為である。こんな行為が江戸時代に本当にあったのだろうか。次に、いかに孤立しているとはいえ、隣村にものを運んで売る程度に広いネットワークの一部である村の住民が、天然痘をそれまで一度も経験したことがなく、その名称すら知らないということが、どの程度ありえることなのか。前の記事でも書いたが、私は江戸時代の天然痘というのは、日本のほとんどの地域において、日常的な生活の中に組み込まれていた事件だったと考えている。たしかに、吉村が描くような土地は存在した。めったに天然痘が侵入しない僻遠の地で、いったん侵入すると惨劇となるような土地である。しかし、これらの土地は本当に孤立していた土地であったし、そのような土地の一つ(新潟の山奥の秋山地方)ですらも、天然痘を知っていた。
もちろん、吉村はどこの村とも特定していないのだから、史実の正誤を論じているわけではない。また、吉村が描いたような、孤立した小村に天然痘が侵入して免疫を持たない多くの村人が死ぬという惨事は、江戸時代において十分ありえた話であろうし、患者が身に着けていた着物から感染するという話も、理論的に可能な話だと思う。ただ、患者を船で送る行為と、沖合を廻船が通るような地方の漁村という設定に、かなりの不自然さを感じたので記事にした。