夢野久作と精神医学

夢野久作の日記は息子の杉山龍丸が編集して公刊されているが、日記が残存している時期の問題もあって、『ドグラ・マグラ』の構想と精神医学の関係について、あまり多くを教えてくれない。当時の九州大学の医学部は、夢野が住んでいた香椎にほど近く、九大医学部の精神科が大きな影響を与えたことは言うまでもない。

 

人物でいうと、1906年に東大助教授から迎えられて九大教授となった榊保三郎(1870-1929)とは密に付き合っており、大正15年には数度かの訪問などが言及されている(T15/03/05, p.137; T15/03/13, p.138; T15/07/27, p.156) いずれも、比較的近しく密な関係を想像させる記述であり、しばらく前から訪問などが続いていたのではないかと思わせる。一方で、1925年に慶應の教授から九大の教授として着任した下田光造との関係は見当たらない。ドグラ・マグラが出版されたのは1935年であるため、25年に着任した下田やその弟子たちと夢野は交流しており、下田らの精神医学が作品に取り込まれたのかと考えていたが、公刊された日記を見る限りでは、その資料はない。もちろん、大正15年、昭和2年から5年までの間にわたって、夢野は繰り返しドグラ・マグラを書き改めている。他の作品を書き終わると、ドグラ・マグラの書き直しに戻っており、昭和5年には「5回目の清書」を済ませている。しかし、この書き直しの過程において、新たなアイデアを得るために下田光造とその研究室を訪れるということは見当たらない。むしろ、ドグラ・マグラを「脳髄論」「胎児の夢」「アホダラ経」などの部分に分けて、それらを書き直しては全体の構造を作り直すことが主たる関心事であった。たとえば昭和2年の1月20日に、トリックを濫用して焦点がうまく結ばれていない、それは全体の構造が自分の頭に余った故ではないかと書いているのは(p.182)、パーツとしてはかなり出来上がっている物語を、どのように配列してキレがよい小説を作り上げようという関心を物語っているエントリーであろう。ドグラ・マグラの形成に直接関与した精神科医としては、下田ではなく榊保三郎を考えるべきだろう。 とりあえず、ここまで。

 

人的な関係として榊を考えると、優生学というより、スタイナッハの若返り法などを一つの軸とするべきなのか。言われてみたらなるほどだけど。

 

夢野久作夢野久作の日記』杉山龍丸編(福岡:葦書房、1976)