イェルサンの伝記

スイス生まれでフランス国籍を取得し、ベトナムで没した医学者であるアレクサンドル・イェルサンの伝記がなくて困っていた。イェルサンの事績で最も重要なのは、1894年に香港でペスト菌を発見したことであるが、このときに北里柴三郎と競争になったため、恐らく日本の医学史で必ず言及される事件である。そのことに触れるたびに、イェルサンの伝記を読もうと思って探したけれども、英語や日本語はもちろんのこと、フランス語においてすらきちんとした伝記は見つけられなかったし、かりにあったとしても、私のフランス語ではおぼつかない。確かにフランスで教育を受けて若い頃にフランスで業績をあげたけれども、後半の人生のほとんどをフランス領インドシナで過ごしたせいことと関係があるのだろう。そのため、イェルサンの人生についての記述は非常に少なく、間違いが多いという印象を持っている。英語版 Wikipedia のイェルサンの項目は、香港にいって満州ペストを調べたという、落ち着いて考えればすぐわかるでたらめが書いてある。

 ところが、今年の春にフランス語の新しい伝記から日本語に訳されたので、喜んでさっそく大学図書館から借り出した。ちなみに、英訳も日本語版とほぼ同時に出版された。

この「伝記」が、評価が非常に難しい書物である。いわゆる学問的な伝記とは全く性格が違う書物だが、しかし大衆向けの俗っぽい伝記とも全く違う。想像力を存分に働かせた、美しい文学作品として書かれた伝記である。その記述は詩的であり、明らかに著者が想像力で書いた部分もたくさんある。英語版アマゾンのページでは、これが小説なのか歴史なのかという議論すらされている。その記述も、フランス風の洒落た表現である。普仏戦争のあとのフランス人のドイツ人に対する敵意を表現するのに、「パリでは先のとがった帽子をかぶってドイツ風に見られるより、珍奇なスイス帽をかぶってヨーデルを歌う方が好ましい」と書く勇気がある学者はきわめて少ない。学問的ではないが、かなりの実質を持つリサーチが背景にあることも明らかである。スイス人の母親との手紙が折に触れて引用されている。それと同時に、結婚相手と考えられていた若い女性が夜ごとに「片手の中指で」マスターベーションをしているとかいう、ほぼ間違いなく、書き手の下品な妄想と呼んでいい記述もある。書き手がフランス人の男性でなければ、遺族がハラスメントの訴訟を起こすだろう(笑)しかし、インドシナにおけるゴムのプランテーションと開発、マラリアの薬であったキナの開発などに触れている部分はとてもいい。

 色々とあって、私が欲しかった学者が書いた伝記ではないけれども、とても面白い文献だと思う。あまり迷わずに英語版Kindleを買った。理由はやはり価格とスペースである。英訳 Kindle だと1400円、邦訳だと3600円。2倍半の金額を出して、しかも本棚のスペースのコストを払うのはやはり理不尽である。

 

パトリック・ドゥヴィル『ペスト&コレラ』(東京:みすず書房、2014)