小沢信男『裸の大将一代記 山下清の見た夢』(東京:ちくま書房、2008)
山下清は日本で最も著名な精神障害の芸術家であろう。1922年に生まれて1971年に没している。その山下のことを丁寧に調べた著作である。学術的ではなく、あえて庶民的な口ぶりで語られているのが魅力になっている。山下は東京の下町に生まれた「知恵遅れ」であったが、周囲の無理解や差別、本人の盗みや暴力などの問題行動があったが、1934年に「八幡学園」という精神薄弱児教育養護施設に預けられ、そこで貼り絵に優れた才能を持っていることを見いだされる。山下が持つ貼り絵の才能を発見して、展覧会という形で「仕掛けた」のは、早稲田大学の心理学教室で教えており、八幡学園にも足繁く通っていた戸川行男であった。1939年には山下を含めて八幡学園の児童の作品を早稲田大学の講堂と銀座の画廊で行う。いずれも超弩級の大成功であり、絵画の専門誌である『みづゑ』は特集号を発行し、1940年の2月号で座談会を企画し、当時の画壇の指導者たちが山下の作品を論じ合った。『文芸春秋』も、同じ1940年の2月号に小林秀雄に山下論を書かせた。その後、いろいろあったが、戦後の1950年代にも山下のブームがあり、1955年には画集が出版され、1958年には『裸の大将』という映画も作られた。
このすべてが、国民優生法と優生保護法が機能している時期であるということを意識しなければならない。山下はその詳細は私にはわかっていないが、精神障害で、子供のころには暴力も振るったし盗みも平然と行っていた。八幡学園の設立者で校長であった久保寺保久(1891-1942)は、山下らの児童は、社会では反抗的であるが、学園で調整された生活をすると生き生きとした自発性を出すといい、1939年には「断種、絶産の民族衛生的方策」が法律化したとしても、これらの児童に対する考察を続けなければならないといっている(著者の小沢は、この久保寺の発言に注を付けて、国家総動員法であろうと書いているが、国民優生法のことだと私は思う)。
もう一つ考えなければならないのが、山下の放浪である。山下は放浪した精神障碍者であったという事実を、きちんと理解しなくてはならない。戦中に徴兵が怖くて八幡学園を脱走して数年間放浪していたときには、北関東の蕎麦屋、弁当屋、魚屋などで、下男的な仕事をしていた。この伝記の記述をぱっと読んだ感じだと、ある家で数か月間住み込みで仕事をして、そこに飽きたりいやになったりすると、数日間かけて街から街に移動したり次に仕事ができる場所を探したりして、再び次の仕事ができる家に住み着くというパターンである。「放浪」という言葉から、野宿や巡礼を想像してはいけない。このあたり、きちんと放浪記を読んで再構成しておこう。