アトラス・オプスクラの記事「ハノイにおけるネズミ抹殺大作戦」を読んで、面白い部分をメモ。
フランスが支配していたインドシナの首都はハノイであった。素晴らしい街であったが、非常にネズミが多かった。1897年から1902年まで長官であり、1930年代にフランスの大統領にもなった政治家、ポール・ドゥメール Paul Doumer は、このネズミを一掃する計画を立てた。ここでは特に言及はされていないが、ネズミは当時アジア各地で出ていたペストの重要な原因になるからだろう。下水溝に降りてネズミを殺すベトナム人を雇い、1902年の4月からネズミを殺し始めた。雇人たちが慣れてくるにつれ、殺す数も増え、1902年の6月には一日につき一万匹以上、6月21日には2万匹を超えるネズミが殺された。それにもかかわらず、ネズミは減っているように見えない。そこでフランスの植民地の政府は方針を変え、雇人ではなく、一般の人々の参加をつのった。誰でも、ネズミ1匹につき1セントを支払われる。単価は安いし、私には価格がよくわからないが、市民参加の新しい防疫のネズミ一掃計画である。この市民参加の計画では、ネズミの死骸ではなく、殺したネズミの尻尾を持ち込んで、尻尾一本につき対価が払われる仕組みであった。もちろんたくさんの尻尾がもちこまれた。仕組みとしては、うまくいっているように見えた。
しかし、現実はフランス側の意図とは全く違う方向に進んでいた。しばらくすると、尻尾がいないネズミが見受けられるようになった。あるいは、外国からネズミが導入されて、その尻尾を切って金儲けをする人々がいることもわかった。最後には、ハノイ周辺の農村でネズミが養殖されるようになった。ネズミを養殖して増やし、ネズミ自身は殺さずに、その尻尾だけを切って役所で代価をもらう。こうすれば、ネズミの尻尾で儲けたい放題である。そのため、この計画は放棄され、人々はあきらめてネズミと一緒に暮らすようになった。このネズミが1906年のハノイでのペストに貢献した。250名ほどの死者というから、それほど大きな流行ではなく、それまで数年にわたるネズミとの闘いが貢献しているのかもしれないが、やはりハノイにネズミは住み続けたことになる。
この歴史的な史実は、実は「コブラ効果」であるという議論がある。コブラ効果というのは、インドを植民地支配したイギリス政府が出した法律で、コブラを減らすためにコブラの死体を持ち込めば対価を払う仕組みを導入したところ、人々がコブラの養殖を始めてかえって増えてしまったというエピソードである。そこで、政策立案者の意図ではなく、それと正反対のことが起きてしまう現象が、「コブラ効果」と呼ばれている。しかし、植民地インドでこの事実があったかということは明らかではないため、実際に起きたことが確かな「ネズミ効果」と呼ぶほうがいいのではないかと主張する人もいるとのこと。