神谷美恵子の全集の月報・辻潤の全集の月報

神谷美恵子の全集がみすず書房から出ており、辻潤の全集は五月書店から出ている。いずれも面白い月報を出している。それぞれが違う個性を持っていて、その個性は神谷と辻の個性を引き出すようなものになっていて、読んでみるととても面白い。また、精神科の医者とその患者というシーンを想像することもできてしまう。辻潤はアルコールか薬物で、精神病院への入院と浮浪を続けて昭和19年に没している。神谷美恵子は、それより少し後の時期になるが、東京女子医大と東大精神科で精神医学を学んでいる。この二人が患者と医者として出会ったら何が起きるのだろう、辻潤が辻らしいことをして、それに神谷が神谷らしく対応すると何が起きるのかという不思議な想像も起きる。
 
神谷美恵子はもちろん偉大な人物だが、学生の頃に彼女が書いた文章を読んだ印象だと、時代が違ってきていると思ったことがよくあった。今回も、神谷は戦前に作られた価値観から戦後の価値観に移行するために大きな努力をしているのだと思う個所がよくあった。一つが女性の性的な無力性の部分である。男が仕掛けた性交渉が成立すると女性は無力になり、一度寝ると、その行為とその男性を否定できない何かが生まれるという、まるで性の魔界のような生活と肉体としてこの世界を提示する個所があった。また、彼女自身が精神疾患の不治を信じているということに改めて気がつく記述があった。自分が精神科の医者になった理由を書いている個所で、「救いなき人々(精神病者)のために役立ちたい」とという動機があったことは事実であると書いている。当時は、現在の言葉でいう統合失調症にかかった人々は「救いなき人々」ではなくなってきているはずだと思う。神谷の性の問題も不治の病の問題も、きっとキリスト教の世界観によるのだろうと漠然と感じている。
 
辻潤も難しい人物である。この支離滅裂な生き方をして、しかしどうしても愛してしまう人間に、なんという感覚を持てばいいというのだろうか。その男について、彼の愛人が裏切られているのに愛情をこめた追録を書いているのが月報の構成である。このでたらめな男と、その男にかしづく女に対して、神谷美恵子が何というのだろうか。いや、これが正しい形だと思うのだろうか。ううむ(笑)