岩波文庫で日本語訳したのは小泉丹(こいずみ・まこと 1882^1952). 動物学者で宮脇に寄生虫学を学び、慶應医学部の教授となった。1927年にフランシス・ダーウィンの著作を刊行する。それ以外にも、ダーウィンの大著『進化論』のかなりの部分を翻訳して刊行している。
まずダーウィンの自伝について科学史の教科書的なポイント。19世紀の末と20世紀の半ばで、科学とキリスト教と神に対する科学者の遺族たちの態度と社会の態度が大きく違うことが分かる。ダーウィンが1878年に二か月ほどで家族のために書いた自伝がある。これは、1887年に息子の Francis Darwin によって刊行された。ダーウィンが1882年に没してから5年後である。そこで重要な改正があって、ダーウィンが自伝に書き残したキリスト教と神の存在に対する批判的な部分が削除されたというものである。しかし、1958年に、ダーウィンの孫のノラ・バーロウが自伝を再刊したときには、オリジナルの宗教批判の部分をそのまま掲載して、ダーウィンの無神論的な自然構成思想が明らかになった。一度、きちんと資料がそろっているいい研究を読んでおきたい。
私は1958年のオリジナル自伝を読んだことはないが、息子が編集したものも十分に面白いと思っている。特に、医学を学ぶためにエディンバラ大学に行って、そこで2年ほど過ごすが、失敗につぐ失敗だったという自分で書いている部分を読んだことがあり、そこは面白い。その他にも、ダーウィンが子供の頃から学生にいたるまで、苦手科目だらけだったことがよくわかる。学科の習得が遅く、ノーティー・ボーイだったこと。古典語が苦手で自分には無意味であったこと。ラテン語とかギリシア語とか、懸命に詩を40行ほど覚えてなんとかするが、48時間でそれを忘れてしまうから何のためにもならないこと。ついでに言うと、シェイクスピアものも含めて詩はまったく心に残らなかったこと。エディンバラの医学関連の科目はすべて苦手だったこと。解剖学もだめだったこと。ケンブリッジでは数学の代数の初歩すらわからなかったこと。ついでにいうと、音痴で耳は貧弱で不協音もわからず、友人たちにからかわれたこと。つまり、学生としては何一つ、全くできなかったことがよく分かる。
もう一つ、今回気がついたのが、結婚の部分である。この自伝は基本的に子供たちに向かって書かれたものであるが、息子のフランシスは、結婚の部分も刊行書から削除していることである。これははじめて気がついた。昔学んでいたジェンダーの歴史でいうと、19世紀の前半のイギリスの男女の男の側は、色々な工夫や仕掛けをして新しい男になり、新しい仕方で結婚を成功させようとしていたが、19世紀の後半にはこれが実現できなくなって、より男性のグループ性での男らしさを強調することを重んじる新男性主義が現れたという議論がある(まだあるのだろうか?)ダーウィンの結婚の楽しそうな記事を息子が削除していることは、この19世紀後半以降の新しい男らしさの議論なのだろうか?