地方の疾病

明治期になると、薬剤をめぐる地方と都市と国際世界の関係が変化してくる。江戸時代には、多くの薬草を持つ地方部に、都会から行政と学問が合体した学者が訪れるということが基本であった。もちろん、大きな流通と結びついた都市部で成立する多様な薬草を、地方部に赴いて教えるという機能もあった。しかし、地方がこれまで気が付いていない薬草が存在して、それを見つけて場合によっては商品にするという観念がより強かった。
 
しかし、明治期になると、薬に関して西洋医学との連接が非常に強くなったため、地方部が薬草と薬剤の産出地であるというモデルが衰弱した。交通機関の発展も貢献し、基本は徒歩であった街道に拠点を持っていた宿町は、薬をその街で売る基盤がなくなり、多くは弱体化するか、都市に移行した。また、主要な街道やその中心から外れた地域は、薬物というよりも、むしろ疾病がある土地となった。ここでは地方部の僻地の部分はマイナスの視点で観られる。新潟県などのツツガムシ病、岡山県山梨県の住血吸虫病、富山県のくる病などに関する進展がみられる。これらは江戸時代にはじまりつつ、「風土病」という名前がつけられて解決が発展したのは明治期である。これらの発見は、医者にかぎらず、別のタイプの医業者が重要であった。富山県の氷見郡氷見町では、灸をおこなう女性が、富山の地方部である氷見の多くの奇病に対して、自らの技量を誇ったという事件に端を欲している。
 
これらの情報を集めて、対策を講じ、必要があれば薬を開発することは、日本の都市に存在した帝国大学などの学術の中心にある実験室が産出地になっていった。一方で、日本の都市は19世紀の末から20世紀の前半において、世界の薬剤生産を指導する立場ではなく、欧米の進んだ医学薬学に従うことが重要な役割を果たしていた。