飯塚友一郎. (1930). 演劇と犯罪, 武侠社.
昭和5年頃に出版された犯罪科学論を読んでおこうとして、三田から取り寄せて読み始めた。精神医学者や法医学者などと並んで、評論家たちも書いている。その中で、私が本を読んだことがなかった飯塚友一郎というかなり著名な演劇評論家がおり、彼が『演劇と犯罪』という書物を書いている。そこに、偽医者として活躍した人物の紹介がされている。この時期の日本の大都市で偽医者が引き起こす問題はとても面白い。
昭和4年に本郷本富士警察署に長谷時次郎という32歳になる男性が逮捕された。佐賀県に生まれ、中学3年まで修めて上海に渡り、その後フランス、ドイツ等を経て、大正12年6月に長崎に戻ってきた。長崎医科大学の学長に取り入って大学で講義をし、九州医科大学でも講義をしたという。
その時期に、長崎在住の某公卿華族令嬢との縁談を持ちかけて、話が進んだが、同女の親権者の印鑑を偽装したため、同年11月に長崎刑務所に収容され、13年2月に放免された。このあたりのメカニズムが私にはよく分かっていない。
長崎から出所後も、医師に化けて無免許開業していたので、また検挙された。昭和4年の3月に、長崎控訴院で1年6か月の刑を言い渡されたが、保釈のまま逃走し、その足で東京に現れた。そして、本郷湯島の医業協会に、某医学博士の偽紹介状で医学士・島義雄と偽名して住み込んだ。さらには、5月には府下中野の某医院の新聞広告に応じて、帝大医学博士斎藤正敬の名で乗り込んだ。同時に某女と結婚紹介所の手で結婚同棲したが、そのうちに、女から数百円を巻き上げて7月には置き去りにして出奔した。
次いで九州大学での斎藤博士の名を騙って、女高師出の某女学校教師と結婚し、自分は病院に勤務し、その間に九州大学に問い合わせて本物の斎藤博士の身元や論文等をことごとく調査して、すっかり自分が同博士になりすませて、府下に一戸を構えた。やがて足元があぶなくなると、今度は伝手を求めて、第一外国語格好に有吉男爵と称してドイツ語を受け持っていた。
同人はドイツ語だけは天才的に巧妙で、それを武器として、かくも各所を化け通してきたと言われている。ドイツ語がたくみかどうかで偽医者になることができるということも憶えておこう。
皆様はだいたい見当がついていらっしゃると思う(笑)実はこの人物は、講義として医学史を教えたごく初期の人物である。ドイツでドクトール・メディチーネの学位を得た如くに装って、長崎医科大学の学長に取り入って、同大学で講義をしばらく続けた科目は医学史であった。同じ時期に九州医科大学へも出張して講義したという。おそらくこれも医学史の講義であろう。1923年の6月から11月までの5か月間に、何らかの形で偽医者による長崎と九州で医学史の講義が行われていたことが分かる。
メモしたほうがいいのか、忘れたほうがいいのか(笑)、よく分からないけれども書いておく。