朝鮮人の移民労働者Bと本所区大平町

朝鮮人の移民労働者。患者Aと患者Bの違いを皆さんに聞くという流れになります。患者Bについての住所地に関するメモをしました。

患者Bは本所区大平町で工場につとめる労働者であった。本所区やその中の大平町については、細かい分析をした英語の書物があるので、それを参考にしながら、彼の人生と思想を位置付ける。

1920年代以降の東京は社会的な福祉の活動が活発になっていた。キリスト教救世軍、YMCA、日本の大学のセツルメントなどが、本所の貧しい労働者たちを対象とした活動を行っていた。彼らを通じて、社会主義や労働運動の原理が説明された。それと同時に、昼間の間は保育園の機能をはたして女性の労働を可能にして、夜間は宿泊ができることが行われた。東大法学部の政治史の教授であり、民本主義に関する議論が名高い吉野作造(よしの・さくぞう、1878-1933) なども本所区で活躍した。医学では、日本の産婦人科の父と呼ばれる木下正中(きのした・せいちゅう、1869-1952) は、ドイツ留学の後、東大医学部の産婦人科の教授となり、退職後、賛育会という名称で貧しい女性と乳幼児を助ける施設を作った。

このような動きは、関東大震災の折の朝鮮人の虐殺があった。[補充] 

そこからの復帰を目指している人々が、1920年代に現れた。吉野は、1920年代の晩年には朝鮮や中国のインテリたちと影響を与え合いようになり、朝鮮人の移民と日本人の関係を改善することを目標とした相愛会が、内務省の官僚によって設立された。朝鮮は基本的に植民地状態を受け入れると同時に、朝鮮の民族性も強調されていく方向である。この流れの中で、1932年には、最初の朝鮮人の国会議員が本所区から選ばれた。 朴春琴(パク・チュングム、ぼく・しゅんきん、박춘금、1891-1973)である。

Hastings, Sally A. Neighborhood and Nation in Tokyo, 1905-1937. University of Pittsburgh Press, 1995. Pitt Series in Policy and Institutional Studies.