朝鮮移民と精神病院

20世紀前半の朝鮮人の移民 Korean workers について、英語の本からデータを拾って、背景の部分を作った。
 
朝鮮移民は、帝国主義の歪みの中で作られた悲惨な状況を味わった人物が非常に多かった。ことに患者Aに関しては、1920年代から30年代にかけて非常に多かった公共土木工事の労働者である可能性が非常に高い。
 
朝鮮において日本に売るための米作が非常に発達するが農村の小作農が貧困化していくことと並行して、多くの朝鮮移民が公共土木工事の労働者になっていく。日本人でも多数の下級労働者が土方として労働していたが、朝鮮移民に関しては、東京周辺でも日本人の労働者よりも数的に多かった。これは1928年の東京市の統計で、失業登録をする日雇労働者に関して、それまでの職業のタイプを答えてもらったものである。この中で、工場労働者、商業関係、交通関係などに関しては日本人労働者が圧倒的に多いが、公共土木工事と農業に関しては、朝鮮移民が全体の2/3を占めるほどで、その数がはるかに多い。
 
  Japanese Korean Total Percent Japanese Percent Korean
Factory or Mine 1,380 222 1,602 86.1 13.9
Public Works 2,997 5,369 8,355 35.8 64.2
Commerce 787 159 946 83.2 16.8
Agriculture 1,763 3,743 5,506 32.0 68.0
Fishery 28 0 28 100.0 0.0
Transportation 310 16 326 95.1 4.9
Demostic 28 2 30 93.3 6.7
Miscellaneous 434 112 546 79.5 20.5
 
 
公共土木工事は、日本の急速な都市化と近代化を支える、この時期の土木、上下水道、道路、鉄道、河川、港湾などに関する急速な発展を背景にするとよくわかる。それぞれの項目につき、東京や大阪ではその都市部や周辺に関する予算の増加を見ることができる。1914年と1936年における東京における増大を例にとると、道路建設の費用が2600万円から1億7700万円、河川工事の費用が2800万円から8500万円へとなっている。その他の事業においても劇的な増大と朝鮮移民の就業が見られている。患者Aは、このように植民地から本土への労働力の移動という日本の歴史の大きな動きの一部である。
 
もう一つ、この部分は若干の推量があるが、患者Aは土方として飯場において親方に管理されて生活していたのであろうと考えられる。飯場は労働作業の現場であり、比較的近くに居住できるようにバラックと呼ばれる建物が作られている。「バラック」という言葉そのものが、1920年代に日本でも用いられている。細井和喜蔵の『女工哀史』(1925) では「右の工場は山間僻地に在って建築等も殆どバラック式であり」と使っている。そこで家賃や食費や酒・たばこなどを別々に払うのではなく、それらが一括された飯場料を払うという形になる。この飯場料は、京都の1930年前後のデータによると、朝鮮移民の日給が1円20銭から2円の場合、50銭から70銭となり、35%から45%を超える数字になる。この部分を管理するのが飯場頭(はんばがしら)であり、彼らは日本人であったり、移民して成功して飯場頭として雇われた朝鮮人であった。患者Aが病院内部で行ったある経済行為を社会に位置づけすると、日給から一定の飯場料を払うというシステムの中で生活していたのだろうと考えられる。
 
Kawashima, Ken C. The Proletarian Gamble: Korean Workers in Interwar Japan. Duke University Press, 2009.