東ローマ帝国の暴露本(笑) 

Quinn, Josephine. "Goose Girl." Review of Theodora: Actress, Empress, Saint, by David Potter. London Review of Books 39 no. 9 (2017): 38-39, https://www.lrb.co.uk/v39/n09/josephine-quinn/goose-girl.
 
Procopius, G. A. Williamson, and Peter Sarris. The Secret History. Penguin Classics. Vol. . Penguin literature/History: Penguin, 2007.
 
Procopius, History of the Wars.  
 
 
 
 
 
古い LRBを捨てようとしたときに、東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌスの皇后テオドラの伝記の書評が出ていたので読む。プロコピウスの暴露本では The Secret History に記されているテオドラの悪行の話もあったので、久しぶりに本棚の PR からペンギンの本を取り出して読んでみる。私がプロコピウスの名前を知っていたりするのは、第一次のペスト大流行についてのコンスタンティノポリスにおける大流行の記述を読んだからである。プロコピウスのペストに関する記述は長くて詳細、十分に信頼に値するものである。ちなみに Gutenberg で読むことができる。 
 
こちらが、皇帝のいさおしを描く書物であるのに対し、この The Secret History のほうは、皇帝と皇后の隠された悪行を思い切りぶちまける話である。プロコピウスの生存中には皇帝たちが生きていたため出版されず、17世紀に初めて発見され、プロコピウス自身のものであることが立証されて刊行されることとなった。その書物ではテオドラは、淫乱な技を尽した売春婦であったが、ユスティニアヌスと結婚して皇后となり、淫乱さではなく凄惨な拷問を周囲の人物に与えるようになったという記述とのこと。若き日のテオドラの父親が優れた動物の世話人で、彼女が女優であったのは事実である。そこから、売春も行っていたという記述になり、幼女の時には肛門性交(「男性同士の淫行」)を行って客を取り、のちには、舞台で陰部を出し、観衆がそこに小麦を撒いて、アヒルにその小麦をついばませるという見世物を提供したという。自分は穴が三つあるが、乳房にももう一つ穴があればよかったということも言っている。若いころは、このようにセックスに飽食していたが、皇后となってからは、拷問のような苦痛を与える方向に発展した。動物の糞尿受けに縛りつけて、そこで何か月も生活させ、ついには発狂させたケースもあるという。
 
いやはや。どの史料の何を信じていいのやら(笑)

シガレット(機械巻き紙タバコ)の歴史を書くという賢さ

Brandt, Allan M. The Cigarette Century : The Rise, Fall, and Deadly Persistence of the Product That Defined America. Basic Books, 2007.
 
タバコの問題の中で、シガレット(機械巻き紙巻きタバコ)の歴史を描く素晴らしい書物。シガレットに集中したことで、問題をアメリカの産業化と近代化に絞りこむことができて鮮明な記述になっている。タバコはアメリカ大陸の先住民の宗教的な儀式の中のアイテムで、それ以外にも世界各地の文化で色々な形をとっているが、それらの問題をある意味で回避して、現代社会においてさまざまな側面で圧倒的な重要性を持つシガレットの歴史に集中した。多くの学術賞に輝き、ピュリッツァー賞の候補にもなった。
 
シガレットを生産する仕組みの話は、ちょっとした前史があって、1881年の、James Bensack による機械巻きシガレット製造機械から始まる。毎分200本のシガレットを機会でつくることができる。それまでは、紙巻きタバコはもちろん存在したが、マイナーなものだったとのこと。葉巻とかパイプなどが優勢だったということだろう。
 
オペラ『カルメン』は1860年代に作曲されていて、タイトルロールはタバコ工場で働く女工だが、彼女は紙巻きタバコを手で巻く女工だったのだろうか。タバコの中で光が当たらない部分の産業でなくて、もっと花形の部門かなという思い込みがあったが、どうなのだろうか。それとも、別のタバコ関係の仕事をしていたのだろうか。

近世の文を読む狂女(図版入り)

伴蒿蹊. 近世畸人傳. 森銑三 編集 岩波文庫. Vol. 黄(30)-217-1, 黄-165, 2196-2198: 岩波書店, 1940. 135-136 
 
江戸時代の歌人・文筆家の伴蒿蹊(ばんこうけい 1733-1806) が1790年に刊行した書物『近世畸人伝』は、100名ほどの人物の「奇」なる生き方を記した書物であるが、その第三巻には「文展狂女」(ふみひろげきょうじょ)として、16世紀後半の天正期の京の街の精神病の女の物語を記している。その女は40歳ほど。一巻の手紙を筥に入れて首にかけ、花が咲くころには東山の木かげで、月の夜には五条の橋の上にいて、文を出して読む。ある時にはたからかに、ある時には沈み込んで、声をあげて泣悲しみ、独言をいって、文を納めて去っていく。女の名はちよで、もとは織田信長の女の小野のお通につかえた女であった。京の商人の喜藤佐衛門に嫁ぎ、そのあと色々あって別れようとしたが、お通が夫に手紙を書いて夫は心を改めた。しかし、5年後に夫は死に、織田の一族もちりじりになって、ちよは狂ってしまい、京の街のあちこちでお通の手紙を読む毎日であった。
 

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日文研データベース 近世畸人伝正・続より 
 
夫を失っておそらく孤独になり、しかも発狂した身で、かつて仕えた女性からの手紙を読んで京のあちこちをさまよう女には、強い情感がともなう。
 
 
 
 

エコノミストより アフリカの大統領はなぜ任期を延長する法律を通しているのか。

 
エコノミストより。アフリカの大統領の任期がなぜ延長されるのかという問題を論じている。民主主義について鋭利な洞察があるのでメモ。
 
1990年代にアフリカ諸国の民主化が叫ばれたときに、個人の大統領の長期独裁政権にならないように、任期を2期などに制限する方法が取られた。アメリカの大統領と同じモデルである。この制限が、現在では取り除かれている。そのために選挙を行って、任期を延長する法律を通すだけの簡単な話である。独裁主義的で恐怖政治的な大統領でも、この選挙に勝つのは簡単である。任期延長の法改正に賛成400万人、反対10人というような結果になる。民主主義の仕掛けそのものである投票による法の改正で、任期に掛けられた無意味な制限を取り除いたんです、何か問題ありますか(菅官房長官 笑)ということになる。 
 
しかし、なぜこれをアフリカの独裁者風の大統領たちができるのか。その理由は、諸外国の支援を取り付ければ、民主主義を守るための制度を守らなくてよくなるからである。アフリカの国家の指導者が、うまく立ちまわって、欧米諸国、(おそらく)日本、そして中国から支援を取りつける仕組みをつくれば、民主主義を守ることが指導者の第一の義務ではなくなる。経済発展、ジハード派との闘いと抑圧、色々なやるべきことがある。そして、その部分は私の補足だけれども、国民の中に、民主主義を維持するためにはそのための仕掛けが必要であり、それを守るべきだという意識が希薄である。だから、指導者たちが独裁政権を永続的にしようと思えば、それに対する抵抗は、どこからもこない構造になってしまう。

新刊書 20世紀前半のドイツ映画と精神医学など + 日本の問題に関するメモ 

historypsychiatry.com

新刊研究書のお知らせ。紹介によれば、20世紀前半のドイツの映画と人間科学(精神医学、神経学、セクソロジー、優生学産業心理学)の関係を論じた書物。映画は、これまでの文化が崩壊したあとの空白を埋めるなどの重要な役割を果たし、また、ドイツは過去と戦争と近代化に伴う問題を、人間科学の枠組みで理解しようとしていた。この両者の連結と相互に影響を与え合う仕方が、ドイツにとって重要になっていた、とのこと。7,000円と超高価だが、ここは踏ん張って買っておいた。
 
映画・映像と精神医療や心理学、そして国家との関係は重要である。私が今書いている著作では必ずしもこの主題を取りあげないが、重要なカギになる現象は非常に多い。ドイツの映画『カリガリ博士』は上映されて非常に大きな評判をとった。映画監督衣笠貞之助の映画『狂った一頁』(1926) は、精神病院を舞台にした映画である。また、文学作品である『ドグラ・マグラ』にも映像の仕掛けがある。九大精神科の正木教授が開設した「狂人解放治療場」の「天然色、浮出し、発声映画」の部分では、映画のスクリプトのように物語が幾つかに分かれて流れ、精神病患者の個人ごとの紹介をする部分、正木教授が自説を展開する部分、主人公である実母と許嫁の殺人犯である呉一郎の顔面の骨相学的な説明をする部分、死体解剖室で若林教授が呉一郎の許嫁の呉モヨ子の盛装した死体を検分している場面と、ストーリーが進行している。
 
一方で、日本の精神医学や精神医療、あるいは産業心理学の脈絡においても、患者や実験の映像が作成され、用いられていたことは確かである。ただ、私自身はそのような映像を一度もみたことがない。これは、私の研究能力が低いことと、そのような研究のリソースを見やすいものにする仕組みが日本では確立していないせいである。しかし、どこそこでかくかくしかじかの映像があるという情報はあちこちから上がってきている。このような映像を歴史学者やそれぞれの領域の研究者たちが見ることができるようになるであろう。大規模な精神病院や大学の精神科病院などもそうであるが、大企業と関連する産業心理学の領域でも、このような映像が管理の効率化に向けて用いられていた。この問題は、拙稿「災害予防と心理学的類型-20世紀前半の日本を中心に」橋本毅彦編『安全基準はどのようにできてきたか』(東京:東大出版会、2017)、209-232. で素描的に論じた。
 

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腸チフス保菌と結核の関係(昭和14年)

堀越、敏雄. "長期間に亘る腸ちふす保菌者ノ臨床的並ニ微生物学的観察." 日本微生物学病理学雑誌 33, no. 11 (1939): 1351-58.
 
堀越はこの論文を書いた時期には神奈川県中央衛生試験所の人物。小田原保健所に勤務して結核についての論文を書いている。1950年に東京慈恵会医科大学から博士号を取得している。主題は撮影画像について。結核業界の医師だろうなという感じがする。
神奈川県中央衛生試験所という組織は、1902年にペスト検査所として設立され、1937年に改称して神奈川県中央衛生試験所となり、横浜市に庁舎が建設された。昭和23年に 神奈川県衛生研究所と改称し、1964年には横浜市内の別の土地に移転した。2003年には茅ケ崎市に移転している。1937年に建設された庁舎は、横浜市の地下鉄阪東橋の近くにある廃墟であり、廃墟として人気があるらしい。
 
 
主題は、長期間にわたる腸チフスの保菌者の事例である。腸チフスは、1902年にコッホがチフス蔓延は患者ならびにその回復者によるという形で、「チフスの症状が消えたが、まだ排菌しているもの」が明確に問題化されていた。その排菌者の一人がNYの「腸チフスのメアリー」であり、メアリー・マローンも長期間にチフスを排菌していた。医学では、似たように長期にわたって排菌する患者がいと論文が書かれ、一つのニュースになっていた。この論文は、そのような長期排菌者についての論文である。そこに出てくる最長排菌者は70年というから、すさまじい数字で、本当だろうかとちょっと思う。この患者の28年というのも、もちろん、28年間ずっと測定されていたわけではない。その数字を出すのは、伝染病予防法と結核の法律(何か調べる)の二つの法を組み合わせるという形がとられた。また、この二つの方が組み合わせられたところには、結核の感染の拠点になりやすい芸妓をしている人物がいた。
患者は61歳で職業は芸妓。61歳で本当に性行為を売っていたのかどうかは分からない。彼女は昭和11年に「業態者定期検便」を受けてチフス菌が発見され、保菌者ということになった。昭和12年と13年には便を出していない。昭和14年に検便をしたら、再びチフス菌が発見された。そこで彼女に質問をしたところ、明治45年に医師より腸チフスとされて、3か月にわたって避病院に入院いて退院したという。そこから計算して、28年間チフスの保菌者であるという話である。
この保菌者に対して、黄疸、白血球、脈拍などの数多くの検査がされて、そこからいくつかのことが展望的に。
 
重要なのは、結核の検便のシステムで保菌者が見つかるというパタンである。この検便を受ける人たちは、業態者といって、他人との接触が多く感染の拠点となりやすい人々を検査検便する仕組みであった。ここを、少なくとも戦前戦後の時期に関して、最低限は調べること。
 

山崎佐のジフテリア論

山崎、佐. "「ヂフテリア」予防制度(1)-(10." 耳鼻咽喉科 3, 4. (1930-1931): (3)443-50, 533-39, 631-36, 707-14, 91-98, 873-80, 959-66, (4)39-46, 257-65, 355-62. .
 
日本の医学の歴史、ことに、近世と明治期以来の医学と法制度との関係に優れた業績を残した山崎佐(やまざきたすく)。一つの優れた仕事が、このジフテリア予防制度の形成の話である。
山崎が強調したい一つの重要なポイントは、日本はジフテリアが法による予防体制の中に組み込まれるのが、欧米諸国よりも早かったという議論である。それは病原体が発見される前に、そしてドイツよりもはやく、ジフテリアは予防の法制度の中に組み込まれていた。これはとても面白いポイントで、もし時間があったら、調べて考えてみたい指摘である。
もうひとつの重要なポイントは、19世紀の末に、伝染病予防規則、伝染病予防法、ジフテリア血清を作成する研究所の設立などがあり、体制が完成するまでの、中央と地方のやりとりを正確に記していることである。このような問題があり、地方からこのような問い合わせがあり、このように中央が対抗したことがわかる。ことに、大正期にはいると、ジフテリアを法定伝染病から削除してくれという依頼が二つの県から来ていることなどもわかり、面白い。
ジフテリアの血清は、戦前日本の衛生の多少恥ずかしい部分である。もちろん国立の施設で北里たちが立派な血清を作ることができたこと、民間の企業もそれと同じような水準の血清をどうにか作ることができたことは、いずれも高い技術力を示していて、それは誇っても良い。問題は、その血清を国が地方政府に売って代金を取っていたことである。これは国が決めた伝染病予防法などに沿って患者の取り扱いが定められている措置である。普通は無料である。ヨーロッパの国は無料だし、アメリカの州も無料である。戦前の日本では、なぜか、国はこれを売っていた。それについては、山崎も批判的に書いていて、我が国の財力、富力、官営と民営の平衡などの問題であるとしている。(959) 敗戦後、GHQ/STAP を驚かせたことに、この問題があった。状況を知ったアメリカの医官が、日本では国が血清を売り、医師が薬を売り、薬剤師は歯磨きを売っている国だという有名なセリフがある。これは、敗戦がもたらした一方的な価値観の押し付けではない。1930年に日本の医学史研究者もおかしいと考えていたことは重要である。
ドイツ医学とアメリカ・イギリス医学の対比もわかりやすく書かれている。日本はドイツ型で、規矩が一定している。急性感染症については、急性のみを取り扱う法律があって、そこには感染症の名前が書いてある。慢性感染症については、別の法律を作る。