堀越はこの論文を書いた時期には神奈川県中央衛生試験所の人物。小田原保健所に勤務して結核についての論文を書いている。1950年に東京慈恵会医科大学から博士号を取得している。主題は撮影画像について。結核業界の医師だろうなという感じがする。
神奈川県中央衛生試験所という組織は、1902年にペスト検査所として設立され、1937年に改称して神奈川県中央衛生試験所となり、横浜市に庁舎が建設された。昭和23年に 神奈川県衛生研究所と改称し、1964年には横浜市内の別の土地に移転した。2003年には茅ケ崎市に移転している。1937年に建設された庁舎は、横浜市の地下鉄阪東橋の近くにある廃墟であり、廃墟として人気があるらしい。
主題は、長期間にわたる腸チフスの保菌者の事例である。腸チフスは、1902年にコッホがチフス蔓延は患者ならびにその回復者によるという形で、「チフスの症状が消えたが、まだ排菌しているもの」が明確に問題化されていた。その排菌者の一人がNYの「腸チフスのメアリー」であり、メアリー・マローンも長期間にチフスを排菌していた。医学では、似たように長期にわたって排菌する患者がいと論文が書かれ、一つのニュースになっていた。この論文は、そのような長期排菌者についての論文である。そこに出てくる最長排菌者は70年というから、すさまじい数字で、本当だろうかとちょっと思う。この患者の28年というのも、もちろん、28年間ずっと測定されていたわけではない。その数字を出すのは、伝染病予防法と結核の法律(何か調べる)の二つの法を組み合わせるという形がとられた。また、この二つの方が組み合わせられたところには、結核の感染の拠点になりやすい芸妓をしている人物がいた。
患者は61歳で職業は芸妓。61歳で本当に性行為を売っていたのかどうかは分からない。彼女は昭和11年に「業態者定期検便」を受けてチフス菌が発見され、保菌者ということになった。昭和12年と13年には便を出していない。昭和14年に検便をしたら、再びチフス菌が発見された。そこで彼女に質問をしたところ、明治45年に医師より腸チフスとされて、3か月にわたって避病院に入院いて退院したという。そこから計算して、28年間チフスの保菌者であるという話である。
この保菌者に対して、黄疸、白血球、脈拍などの数多くの検査がされて、そこからいくつかのことが展望的に。
重要なのは、結核の検便のシステムで保菌者が見つかるというパタンである。この検便を受ける人たちは、業態者といって、他人との接触が多く感染の拠点となりやすい人々を検査検便する仕組みであった。ここを、少なくとも戦前戦後の時期に関して、最低限は調べること。