神経痛の歴史

 土曜日のシンポジアムのときに、名前だけは長いこと存じ上げていた高名な英文学者がフロアにいて「お話になったことと、<痛み>の問題とはどういう関係にあるのか」という質問を頂いた。質問の本体に入るまで、もう一人のシンポジストへの質問であるかのような部分が長かったので、虚をつかれてまともな答えができなかった。だいぶ経ってから、<あの本に書いてあったようなことを言えばよかったのかな>と思い出した本を読み返してみた。 
 この書物の最大のポイントは、医者たちも歴史家たちも最近まで無視してきた「損傷なき痛み」が、19世紀の医学を通じて議論され続けていた問題であったことを示したことである。医学・医学史の教科書では、「19世紀の初頭以降、損傷を伴わない痛みは主観的、二次的、あるいは空想的な現象として無視されて、最近まで忘れられていた」と教えられている。(数年前までは、医学史の授業の中で一時間はフーコーとパリの臨床医学革命を教えていたが、私もたぶんそんな雰囲気で教えていたと思う。)まあ、そう考えたくなったり教えたくなる気持ちは分かる。「痛み」が医学理論の中心問題になるのは、18世紀以降である。特に、パリの病院医学の解剖=臨床的な方法が確立されると、痛みを身体の構造変化にマップすることが病気を知ることになる。ベルやマジャンディといった神経学の巨人たちの実験も、痛みと空間的に同定できる生理学的な部位の同定に拍車をかけた。そうすると、損傷を伴わない痛みというのは、科学的にノンエンティティというか、あってはいけない現象になる。ところが、そういわれると意外なことに、この現象は、19世紀の医者や神経学者たちを、特に臨床において魅了し続け、それをめぐって当時のビッグネームが色々な説明を考え出している、というのがこの書物の独創的な発見である。
 もう一つ、特筆すべきことは、近年、イギリスの精神医学ではベリオスが、カナダではショーターが率いて、数多くの優れた知見を生んで有力になっている「ネオエッセンシャリスト」というか「オントロジスト」というか、「臨床的事象」そのものの歴史を書こうというグループがいるが、筆者はこの学派の闘士であることである。つまり、社会構成主義に真っ向から反対し、歴史を通じた臨床像の連続と安定を証明して、社会状況が違っても臨床的な事象は変わっていないことを示そうとしている。 私自身は、近年の多くの「実証系」の医学史研究者と同様に、この手の論争に決着をつけること自体にはあまり興味がない。 しかし、最近は、この問題に関して良心的で良質な議論は、オントロジストの方からより多く出ている印象を持っている。 

文献は、Andrew Hodgkiss, From Lesion to Metaphor: Chronic Pain in Britain, French and German Medical Writings, 1800-1914 (Amsterdam: Rodopi, 2000).