ブルトン『ナジャ』


アンドレ・ブルトン『ナジャ』巌谷國士訳(東京:岩波書店、2003)
アンドレ・ブルトンの『ナジャ』は、精神病者の街での生活を理解するために、まず読むべき歴史資料である。これは、日本の精神病者の私宅監置を理解するためには、呉秀三の有名な本とともに、まず島崎藤村『夜明け前』を読むべきであるのと似ている。これは、書いてあることが表面的なレヴェルで正しいかどうかという問題ではなく、精神病者が生活するうえでもっている深い問題に光が届く記述になっているからだと思う。田舎で私生児を出産してパリに出て、麻薬の密輸などの犯罪にも手を染めて身を持ち崩して生きている女性「ナジャ」が、ブルトンに出会って、街を歩き、カフェで語り、デッサンを渡し、精神病が進行するなかで、ナジャとの関係から抜け出そうとしているブルトンとの関係の中に生きることを見つけようとしている状態を、稀代の文学者が正直に記録した傑作である。

『ナジャ』については、この著作のしたがっているふたつの主要な「反―文学的」要請のどちらかを考えても、とくに右のことがいえるはずだ。つまり、豊富な写真図版が一切の描写―『シュルレアリスム宣言』のなかでその無益さを攻撃されている―の排除を目的としている点、またそれとともに、物語のために用いた口調が医学上の、それもとくに神経精神医学上の観察記録の語調をなぞっている点である。その種の観察では、診察と質疑応答からひきだせる一切のものの痕跡をとどめながら、文体上の粉飾にはすこしもとらわれずに報告することがもとめられる。これを読みすすむうちに気づかれるだろうが、「現場でとらえた」資料をなにひとつ歪めないように気をくばるこの解決法は、ここではナジャその人ばかりでなく、私自身にも、第三者にも適用されている。このような記述の意図的なつつましさこそが、この本の消失点を通常の限度以上に遠のかせることによって、おそらく新しい読者の獲得に役立ってきたのだろう。 8

「双面劇場」で『気のふれた女たち』という私立女学校を舞台にした演劇が上演された。これは、循環的・周期的な狂気の症例が重要になるが、ブルトンも学んだ精神医学者のババンスキーが、この作品の製作に協力した。 47-55

「アンドレ?アンドレ?・・・あなたはあたしのことを小説に書くわ。きっとよ。いやといってはだめ。気をつけるのよ。なにもかも弱まっていくし、なにもかも消えさっていくんだから。あたしたちのなかの何かがのこらなければいけないの・・・。」 117-8

その後も何度かナジャと会った。私にとっての彼女の考えはいっそうはっきりしてきたし、彼女の表現は軽やかさと、奇抜さと、深さとをましていった。おそらくそれと並行して、彼女自身のなかにある人間としてもっとも限定を与えられている部分をひきずりこむ修復のきかない破綻、つまりあの日に私の感じとっていた破綻が、少しずつ私を彼女から遠ざけていったのかもしれない。 136

157-58 ブルトンがいかにナジャとの時間に堪えられなくなったか。

いちどでもその内部に立ち入ったことがある人なら、精神病院こそは狂人をつくるところだということを知らないはずがない。 163

もしもどこか私設の療養所のなかで、富裕であれば要求できるようなあらゆる配慮をうけ、害になる雑居生活などいっさい強いられず、それどころかしかるべきときに友人の存在によって力づけられ、できるだけ好みを満たされて、いつとはなくまずまずの現実感覚にもどるようであったら、もちろん急かしたりはせず、自分で障害の源にさかのぼれるように骨を折ってやる必要があるにしても、彼女はこの難局を切りぬけていたにちがいない―といえばいいすぎだろうか。いや、どう考えてもそうなのだ。けれどもナジャは貧しかった。私たちの生きているこの時代では、ただ貧しいというだけで、良心だの良俗だのという愚かな規範を完全には守るまいと思ったとたんに、有罪判決を受けるのにじゅうぶんである。それに彼女は孤独でもあった。「こんなにひとりぼっちだなんて、ときどきこわくなります。お友だちといったら、あなたがただけなんです」と最後に電話をかけてきたとき、彼女は私の妻にいった。 166-7

画像は、ナジャのデッサンより。