精神病者監護法(1900)


青山良子「精神病者の家族の役割―<精神病者監護法>における管理システム」『解放社会学研究』14(2000), 116-133.
「精神病者監護法」(1900)は、精神病患者を座敷牢に入れるための手続きを定めたことで悪名が高い法律である。大きな問題があった法律であり、現在の日本の精神医療の問題の多くは、この法律に端を発していることは間違いないが、その「問題」とはなんであったのかということについては、意見が分かれており、私の考えでは、誤解されている。この論文は、多くの論文の中で最も的確にこの法律の問題を突いているものだと思う。

精神保健福祉法(1995)では、「保護者」の制度が定められており、保護者には多くの義務が課せられている。この制度の一つの起源は、法律上は1900年の精神病者監護法にあり、さらにはそれ以前から連綿と続いているものである。

日本の障害者福祉は、家族の自助を取り込んでおり、戦前は「家」制度によって、戦後は「愛情」によって、イデオロギー的に強化することにつとめてきた。117 それによって、家族にケアや経済的負担を強いてきた。家族への依存度が高い実態は、我が国の伝統であるとして美化されるか、欧米と比較したときの「後進性」として、欧米化をめざすのに利用されてきた。

精神病者監護法は、司法省法制局長官の梅謙次郎と帝国大学医科大学教授の片山国嘉がまとめ役となって立案された。東京・大阪・京都の大都市を除くと、日本には精神病院などというものがなく、有害な精神病患者を取り除いて収容する空間としては私宅しかありえなかったこと、精神病患者の扶養義務者に関する明確な法文が民法になかったことが、この法律が作られた理由である。岡田靖男をはじめとする解釈によると、この法律は社会治安を目的とした立法であるが、青山によると、危険な人物を取り除くことではなく、監置後の取り締まりを規定した法であり、法の下で精神病患者を処することを第一義的な目標とした法である。呉・樫田の調査で引用されている361人の被監置者のうち、看護義務者が家族であるのは347人、すなわち90%以上であり、実質的に、精神病者を拘束して実質的に世話をするのは家族であった。つまり、「監護法」は、精神病者を管理する家族に向けられた法律であったということができる。

北原糸子が、明治初期には、精神病者の処置が不良の子弟の教化と並んで記されていることを論じているが、そこに注目して、この論者も、私宅監置は、「家」や資産が存在する富裕階級での懲罰を意識した問題であり、精神病者に特有の問題だったわけではないと論じている。128

監護法は、1898年の民法改正の2年後であり、そこで規定された、きわめて強力な家父長制の上にたつ「家」制度は、監護法の基礎であった。監護義務は、民法で意識された「家」制度を利用するものであった。これは、危険な精神病者の管理という国家の意思を、家庭という私秘的な領域で実行する法律であった。精神病者処遇は、行政や医学権力の強制的な介入による管理というより、家族の主体性を利用した巧みな管理システムによって行われたのである。