精神病者監護法以前

必要があって精神病者監護法以前の精神病者の管理の体制を研究した論文を読む。文献は、永井順子「<名指し>のアポリアと<監視>の発生―明治33年<精神病者監護法>の成立をめぐって―」『ソシオサイエンス』9(2003), 181-197.

障害は、個体の生における事実というよりも、国家によって「名指し」され、それとして設定されることではじめて存在するものである。国家は、名指されたものに対して、あることを禁止し、ある権利を特権的に認める。そして、これを順守しているかどうかを監視する。名指されたものはこの監視を内面化する。このメカニズムが、明治期の精神病者について機能していたかどうかを検討する論文である。

明治7年には、路上徘徊して人に害を加え放火する狂人を家族が取り締まることが定められた。これは区長・戸長が戸主を権力に最末端として組織した体制であり(中谷陽二)、江戸後期以来の都市貧民を授産する流れの中のものであった(北原糸子)。明治6年にできた養育院では、徘徊するもの誰でもが問題になっており、一般的に居と職がないことを問題とする制度の中のサブセットであった。警視庁布達は、ほかの府県の瘋癲者たちを養育院で引き受けるのでなく、引受人が現れるまで懲治鑑に送るというシステムを作り上げていた。また、瘋癲人も不良子弟も私宅に鎖固する場合の手続きを定めることが行われた。これとともに、私宅は、国家によって名指しをうけた役割を持つことになった。つまり、精神病者そのものの名指しはないままであったのである。

M19以降、巣鴨に移転した癲狂院帝国大学の臨床の機能を持つ。ここで、医師が特権化されるのだが、国家という概念の強化によって、医師の特権化と同時に、医師に対する警察の管理を生み出すことにもなった。

精神病者監護法は、その制定の起源の一つを精神病であることがあいまいであった華族の監禁をめぐる争いに持つにもかかわらず、精神病の定義が存在しない(182)という指摘は、たぶん、重要である。ほかの国のこの種の法律が、歴史的に、精神病の定義をしていたかどうか、にわかには思い出せないけれども。非常にすぐれたリサーチをしていて、分析も鋭く、大いに勉強になった。

優れた論文だからこそ、これは言わなければならないだろう。根本にあるデリダの概念について、明らかに未消化であって、よくわからない。不明確にしかあらわされておらず、きちんと詰めて使っていないのだと思う。それを象徴するのが、少し抽象的な概念を使うときには、その言葉に「」をつけて表現するというスタイルの多用である。冒頭の一ページだけで、25の語句が「」で括られている。申し訳ないけれども、数えさせてもらいました。