江戸時代の木製の水道管

公衆衛生の上水道・下水道は、水系感染症の歴史と現在にとっては非常に重要な主題である。私はほかの学者の話を伺ったり古典的な論文を読んだりしただけで、リサーチしたことはない。今日はクレジットカードの会員誌の記事を読んでいたら、「江戸時代の木製の水道管」の現物の写真が掲載されていて、感心して見入った。黒田涼さんという作家で江戸案内人の記事で、ネットで検索などをすると、何点かの写真を見つけることができる。以下のサイトなどをご覧いただきたい。
 
(「まちくえすと」の「江戸時代の木製水道管」 2018.06.21 に閲覧)
 
これは銀座8丁目くらいの場所である。黒田の記事によると、銀座は幕末には衰えていたが、1872年の大火を機に、明治政府が西欧風の街づくりを行う。ジョージアン様式の煉瓦街を、イギリス人建築家のトーマス・ジェイムズ・ウオートルズが設計したという。大通り沿いに作られた洋風二階建ての街並みは、ロンドンのリージェント・ストリートをモデルにしているという。この煉瓦街は、関東大震災でその大半が失われたが、1988年の工事の時に発見され、現在では「江戸東京博物館」に展示されているとのこと。また、同じ場所ではあるが、1967年の工事の折に木製水道管が発見され、洋品店の店先に展示されているとのこと。この江戸時代の木製水道管の現物と、江戸東京博物館が展示する明治の煉瓦街は、ちょっと実物を観に行こう。
 
木製の水道管についていたキャプションによると、総延長が150キロあったというが、これは木製の水道管がつながれて150キロあったという意味ではないと思うけど、まさかそうなの?(笑)

『週刊医学界新聞』の精神科医療の特集

医学書院/週刊医学界新聞

 

『週刊医学界新聞』の3277号(2018/06/18) が精神科医療の特集で、熱心に読んだ記事が二つあった。一つが一面の座談会である「EBM時代の精神科医療」という特集で、副題として「ガイドラインと実臨床のギャップを埋める」がついている。科学的根拠に基づく医療で「一般的な患者」を念頭においた診療ガイドラインが作られている中、「個別性を持つ患者」を治療する精神科医療では、ガイドラインと個別性がどのように取られているかが主題である。「うつ病治療ガイドライン」と「統合失調症薬物治療ガイドライン」にかかわったお医者さんたちが出てくる。とても面白い。もう一つが、「精神科急性期の医師配置水準と治療成績の関連」という記事で、これは急性期と長期療養の対比を一つのベースにして戦前期日本の精神医療の利用を考えている私としては、大きなヒントになった。

医学史と社会の対話ー優れた記事の紹介③

igakushitosyakai.jp

 

医学史と社会の対話で、今日公開されたばかりの記事。アメリカに留学している藤本大士君が執筆された記事です。津和野の医療史をたどる興味深い施設である「医食の学び舎(旧畑迫病院)」の紹介です。添付されている写真なども美しいものです。ぜひご覧ください! 

背景―幸田露伴『椀久物語』

Madness between Silence and Eloquence: The History of Mental Illness in Modernist Tokyo 1920-1945 (仮題)の第一章の背景の部分、それも精神病者監護法の部分を書いてみた。大津事件、相馬事件、九鬼波津子事件はかなりできた部分もあり、もう一度きちんと書き直す。幸田露伴の『椀久物語』(1899-1900) がよかったので、それについて書いてみた。

1890年代には、精神疾患に関する社会的・国際的な問題が数多く現れて、1900年に精神病者監護法が設定された。1891年には大津事件が起きて、巡査津田三蔵が来日中のロシア皇太子を剣で襲撃した。総理大臣らは津田巡査を死刑にしようとしたが、彼が精神疾患を持つことを根拠として死刑とはならなかった事件である。1883年から1895年にかけて、旧藩主の精神疾患をめぐる家族と家臣の論争である相馬事件が話題となった。現在は福島県にある相馬藩(中村藩)の最後の藩主である相馬誠胤(そうまともたね 1852-1892)について家族は彼の精神疾患を理由として監禁したが、彼の家臣が彼は精神疾患ではないと主張してこれを助け出し、東大教授の榊俶(さかきはじめ )、エルウィン・フォン・ベルツ ( 衛生局の後藤新平などの著名な医師たちによる診断が行われた。相馬誠胤は1892年に死亡して、家臣はこれが毒殺によるものであるという告発を行い、1890年代には、九鬼隆一という文部官僚であり、美術界の庇護者であり、貴族院議員となった人物と、彼の妻である九鬼波津子(はつこ)で、美術家の岡倉天心の愛人であり、九鬼周造の母親であった人物の間に、波津子の精神疾患をあらそう議論がおきた。

文学の世界で興味深い作品の一つが、幸田露伴の小説『椀久物語』である。この作品は、もともと雑誌『文芸倶楽部』に1899年1月と1900年1月の二回にわたって掲載された。いわゆる椀久の物語は、江戸時代の大阪に実在したといわれる事件であり、井原西鶴浮世草子浄瑠璃などにされている、近世とテーマが連続していることを示している。それと同時に、登場人物の家族や知人が主人公の精神疾患をめぐって誤解が重なっていくことをストーリーの主軸としている。この主人公の精神疾患のある意味でのあいまいさは、大津事件、相馬事件、波津子の精神疾患事件などと同じ主題である。

『椀久物語』においては、主人公である京都で壺屋を営む富裕な久兵衛が、京都の遊郭である島原の太夫である松山を愛するが、母親に勘当されて貧困化して、それでも松山に会いに行くという話が前半の重要な部分である。その過程において、久兵衛(あるいは椀久)は正気を失っていくが、母親も松山も久兵衛が狂気であることをつかめないまま話が進行していく。母親に遊郭出入りを厳しく叱られると、久兵衛遊郭で酒を飲み、騒ぎ、笑い、悦ぶ時間を高く評価して、家に帰って算盤をはじき帳面に記したりすることは低く評価し、そう母親に言う態度が、傍若無人に管を巻いて、横に寝て、「おお気が狂った、気が狂った、気が狂った」と自らの狂気を認めている。同じような違和感が松村と話すときにも起きる。母親に勘当されて乞食同然の暮らしをするようになり、かつての知人が知らぬふりをしているときに松山に会えて、二人で話をするときでも、松山は深い愛に基づいた話をするのであれが、久兵衛のせりふはポイントからずれている。そのため松山は久兵衛がいうのはよもや本気ではなく、半分は戯れで言う、といって、久兵衛がまともではないと批判する。この部分は、久兵衛が家族である母親や、将来の妻・お葉となる松山との間に、精神疾患の妥当性をめぐって誤解が生じ続けていく重要な部分である。精神疾患の処遇に関して、家族や世帯で問題を処理することが中核であったことを示している。

医学史と社会の対話ー優れた記事の紹介②

igakushitosyakai.jp

 

先日は光平先生の動画を紹介しました。同じ日の松沢病院のメインのスピーカーはロンドン大学の松本直美さん。彼女の講演「愛に狂った者たちの歌」は、初期近代音楽の演奏者・声楽家の合計4名の演奏を含み、内容に関しても音楽に関しても、洞察の深さと圧倒的な華麗さを持つ講演でした。17世紀イタリアの音楽が、精神疾患や精神病院などを生き生きと描いていることは、深く心に残るお話であり、演奏でした。残念なことに、著作権などの問題で、動画をそのまま掲載することはできませんでしたが、その代わりに、中西恭子先生の文章をいただくことができました。ぜひお読みくださいませ!

 

 

医学史と社会の対話ー優れた記事の紹介①

 

igakushitosyakai.jp

 

学術振興会から資金をいただいて運営している「医学史と社会の対話」。他の研究資金と違って4月に始まるタイプではなく、10月に始まるタイプでして、2018年の9月末でひとまず最初の研究運営が終わりになります。現在、合計で3年間となる業績報告を書いておりまして、ウェブサイトを見直して、達成できたこと、できなかったことなどを書いております。その中から、あと3年間にわたって研究と発信を進めたいという延長申請を書き上げることができればと思っています。

映像をウェブサイトにアップロードする新しいコミュニケーションの登場は、これまで伝統的な学問の方向ばかり実践していた私にとって、まぶしいものがありました。2017年9月に行った「精神医療と音楽の歴史」では、国際日本文化研究センター・プロジェクト研究員の光平先生の講演、ピアノ演奏、そして野澤徹也先生の三味線の演奏の動画です。お楽しみください!

 

元ナチスのSS隊員が戦後に論ずる優生学と人文学が混じった「馬鹿について」

 
Geyer, Horst et al. 馬鹿について : 人間-この愚かなるもの. 創元社, 1958.
 
ホルスト・ガイヤー(Horst Geyer, 1907-1958) はドイツの神経科・精神科の医師。遺伝を重視した優生学と人類学の学問を吸収し、カイザー・ヴィルヘルム研究所で研究を発展させていた。1939年にベルリン大学で教授資格論文を仕上げる。内容は当時のドイツや優生学でも取り上げられていたダウン症であった。それからナチスのSSの隊員となり、デュッセルドルフやウィーンで人種生物学、人種衛生学などを研究するメンバーとなっていった。戦時には精神科を担当する軍医として活躍した。終戦時に何があったのかよくわからないが、本書が書いているように、アメリカ軍やイギリス軍にとらわれたことは事実であろう。戦後は精神病院を経営する医師となった。
 
このガイヤーがベルリンにいた時期に、そこに留学したのが満田久敏(1910-1979) である。満田は京大医学部卒ののち、ベルリンのオイゲン・フィッシャーのもとで精神医学、優生学、人種衛生学などを学び、この時期にガイヤーとともになった。満田のキャリアはガイヤーとよく似ていて、京大の講師をしたのち、1943年から45年まで、ジヤワ・マラン州の邦人病院長をすることとなった。敗戦後にしばらくして帰国して、すぐには良い職にはつけなかったが、1953年に大阪医科大学の教授となる。
 
その二人がドイツの学会で出会い、抱擁したときにさまざまな思いを込めて話しが弾んだのだろう、その時に、ガイヤーが書いた書物 Ueber die Dummheit (1954) を訳すこととなる。この書物はドイツではちょっとしたベストセラーであり、第七版までは進んでいるという。日本でもかなり売れているようである。方向としては、ナチス優生学的な政策や精神病患者の殺害からは距離を置くが、優生学の立場というのは固く信じている。世界の諸文明の中でドイツが圧倒的に優れ、ドイツのギムナジウムラテン語ギリシア語を学ぶ方法も圧倒的に優れ、アメリカやイギリスよりもずっと優れているという思想も熱く語られている。
 
ガイヤーの記述はドイツ語の Wikipedia。2か月ほど慶應外語で習って、ドイツ語が少しずつできるようになりました。素晴らしいコースです!