日本のコレラ

日本のコレラ研究を英語でまとめた書物を読む。
 この書物については、以前にポリッツァーの『コレラ』を紹介したときに触れた。内務省衛生局の高野六郎と東大伝研、北里研究所からそれぞれ一人ずつ選ばれて、国際連盟を通じて日本の高いコレラ研究の水準を世界に示そうという意気込みでまとめたものである。出版は1926年。
日本の医学はコレラ研究において有利であったといえる。コッホがコレラ菌を発見し、コレラの細菌学的研究が離陸したときにはすでに欧米ではコレラは稀な病気になっていた。優れた研究機関と設備を持っている場所では、採取したばかりの新鮮な菌で実験をするのが難しくなっていたのである。一方日本では、北里らが持ち込んだ細菌学研究の手法が根付き始めていたときに、コレラの流行はいまだ盛んだった。その後も、小規模の流行ということなら大正末期まで研究素材は国内で手に入った。それにとどまらず、中国の流行で患者から得られた菌を取り寄せて、菌株の比較研究などをすることもできた。こういった好条件にも恵まれて、日本のコレラ研究の水準が高かったことは間違いないだろう。それと同時に、感染症の有無と多寡が文明の尺度になっていたとき、1920年になっても5000人規模のコレラ患者を出していた事実は、高野らの列強の一員としてのプライドを著しく傷つけたことだろう。自国のコレラ研究の成果を誇る高野らの胸中は複雑だったかもしれない。「日本の周りの国にコレラがなければ、日本にはコレラなんて一切ないはずである」という、島国根性むきだしの高野らの台詞は、国際連盟の医者たちに微苦笑をもたらしただろうが、その背後には屈折した意識があったと想像される。
高野のエピデミオロジー、特に伝播の実験は非常に面白い。研究の中心は、人間ではなく、モノに移っている。水に注目して、海水、井戸水、真水などでコレラ菌がどれだけ生存できるかを実験する。あるいは温度を変えて、コレラ菌の生存率を調べる。魚肉や野菜にコレラ菌を付着させて、菌の繁殖と生存を調べるといった実験が日本では繰り返されていた。1880年代から90年代には隔離と避病院を中心とした患者への注目ばかりだったが、それとは違うパラダイムが1900年以降の日本のコレラの細菌学研究に見て取れる。医学史の教科書的な記述には、ミアズマ説が土地を中心としたのに対し、細菌説は防疫的介入のターゲットとして「患者」を設定した、と書いてある。私自身もそう教えていて、その流れでキャリアーとタイフォイド・メアリーを教えてAIDSにちょっと触れる、というのが、この数年のパターンである。高野らの研究のまとめを読んで、少なくとも日本のコレラ研究には、この教科書的な記述はあまり当たっていないと思った。

文献はTakano Rokuō, Otsubo Itsuya, and Inouye Zenjūrō, Studies of Cholera in Japan (Geneva: League of Nations, 1926).