流行病のカズイスティーク

未読山の中から出てきた19世紀のイギリスの衛生改革の論文を読む。

 19世紀イギリスの衛生改革の歴史研究はきわめて水準が高い。レッセフェールと福祉国家の関係、中央集権と地方分権といった、長いこと近現代社会の中心的な問題として認識されてきた枠組みの中で、高水準の研究がさまざまな立場からされている。過去200年間の知識人たちが総力を傾けて取り組んできた諸問題がそこで議論される。個々の論文も、巨人の肩に乗って議論をするから、読んでいて楽しい。この論文も、そういう読んで楽しい論文の一つ。

 チャドウィックを初めとする19世紀イギリスの衛生改革者たちは、私有財産とレッセフェールが強固なイデオロギーだった時代に、公権力によって個人の財産の利用の自由に制限を加えた。この良く知られたディレンマを分析することが、この論文のテーマになっている。こういったディレンマを前にして、チャドウィックらは、市場原理そのものを否定せず、市場が失敗するようなセクター(水道とかスラムの家主とか)においてのみ財産所有者の自由を制限するべきだ、というレトリックを編み出す。介入は限定的であり、市場<原理>はむしろ擁護されている。このように神聖視された市場は、個人と社会、短期的な利潤追求と長期的な社会の繁栄を調和させる、道徳的なコスモロジーの中で理解されている。つまり、合理的な欲望を追求する個人は、社会の利益をもたらすと同時に、その個人自身も利得を得る。利益を得ている個人、繁栄している社会は、そうなるべき理由があって、繁栄している。合理的な行動に報酬を与えるメカニズムが市場には内包されている。そのような優れたものに賞を、そうでないものに罰を与える、父親であり教師としての「自然」像が、19世紀の市場の神聖視の背後にあった。

 この世界観・イデオロギーにとって、一見ランダムに人を斃し共同体を襲う流行病(ここではコレラ)は、根本的な理論的脅威だった。人がコレラに罹り、社会がコレラの流行に襲われるのが、偶然の産物ということになると、自然は賞罰を適切に分配するという世界観が根本的にぐらついてしまう。コレラの罹患が、まるでビリヤード台の上での衝突のように、その病原体に偶然触れたからという形で説明されると、チャドウィックたちのイデオロギーの根本が怪しくなる。人がコレラに罹るのは、何かの「理由」に対する罰でなければならない。チャドウィックの自然は、サイコロを振ってコレラの患者とコレラが流行する社会を決めてはいないのである。それは、市場での成功という賞罰を分配するのと同じように、コレラという罰も分配しているのである。

 こういった「流行病のカズイスティーク」は色々なヴァージョンで読んだし、授業でもローゼンバーグ(Explaining Epidemics)に沿って宗教思想の流れで一年に2回くらい話している。この論文の面白いところは、経済思想と絡めていることである。ちょっと発展させて経済思想につなげると、学生も面白いだろう。

文献はKearns, Gerry, “Private Property and Public Health Reform in England 1830-1870”, Social Science and Medicine, 26(1988), 187-199.