神経症の猫と精神薬理学

 昭和戦前期の精神科医療の薬物療法について夏までに論文を書くことになっている。その関係で、1950年代の精神薬理学革命を「内部から」記述した本を読む。

 Jean Thuillierは、パリのサンタンヌ病院に勤務していた医者で、1950年代のクロルプロマジンをはじめとする精神薬理学革命の中心にいた研究者である。彼が書いた回想録が英訳されている。予想通り、クロルプロマジン以降の精神医療をバラ色に描き、以前の精神医学を暗黒時代として描くという無批判なヒストリオグラフィを採用している。私自身はこの手の本は歴史研究の素材として読んでいるから、そのあたりは特に気にならないが、これを歴史そのものとして読むと、バランスを失しているのは確かである。

 しかし、彼の記述はとにかく面白い。革命時代に生きた精神薬理学者が考えていたこと、彼らの研究の日常が手に取るようにわかる。面白い逸話も満載である。精神医療の歴史研究者たちにもっと読まれていい本である。逸話の中の極め付きは、猫を神経症にして治療する実験である。

 精神医療の治療学を科学にするためには、やはり動物実験をしなければならない。問題は、そもそも動物が「精神病」になるかどうかということであるが、そこには目をつぶって、テュイエは猫を神経症にして、それを治療する薬があるかどうか発見しようとする。まず、レバーを押すと餌が出てくる機械を使って、猫にレバーを押して餌を得ることを教える。そうしておいて、機械をちょっと変えて、レバーを押すと、餌が出てきたり、冷たい突風が吹き出してくるようにする。レバーを押せば餌が出てくると思っている猫は、冷たい突風を浴びて可愛そうにすっかり混乱する。片隅にうずくまって不安そうに座り、無意味に鳴いたり、時として攻撃的になったりする。これで「神経症の猫」が出来上がる。

 今度はその治療である。当時の色々な古い薬物を試してみたが、うまくいかない。そこで、猫に酒を飲ませることを考える。猫は最初は酒を嫌がったが、ミルクに少しずつ混ぜていくと、酒いりミルクの方をかえって好むようになる。酒いりミルクをたんまりと飲んで酔っ払った猫は、レバーを押して冷たい突風が吹いてきても気にしない。ごろりと横になって幸福そうにしている。「神経症」の症状は微塵も見せない。この効果は、酔いがさめるともちろんなくなってしまい、猫は神経症にもどる。テュイエは結局この実験を諦めることになる。自分でも馬鹿馬鹿しくなったのだろう。

 テュイエは、そのほかにも、ねずみ、トウギョ、クモなどを使って、行動を変容させる薬物の実験をしている。(LSDを与えられたクモが過剰に几帳面な巣を張る話は有名だが、その背後にある彼の涙ぐましい努力は知らなかった。このクモは、自由にさせられないと巣を張らないので、倉庫で放し飼いにしなければならなかった!)もちろん彼は、これらの実験は、精神薬理学の黎明期の試行錯誤の一環だとわかっている。しかし、猫の神経症を「治す」薬物を彼が「発見」してしまっていたら、その後の精神医学はどうなっていたのだろうか。想像すると楽しいだけでなく、意外に重要な問題に触れているかもしれない。LSDにしてもクロルプロマジンにしてもその基礎になったクラレにしても、精神薬理学革命を担った薬物は人間で実験されたのだから。

文献はThuillier, Jean, Ten Years That Changed the Face of Mental Illness, English Edition approved by David Healy, translated by Gordon Hickish (London: Martin Dunitz, 1999).