『ポルノグラフィの発明』


 16-18世紀のポルノグラフィを論じた研究書を読み直す。文献はリン・ハント著『ポルノグラフィの発明』正岡和恵・末廣幹・吉原ゆかり訳(東京:ありな書房、2002)

 原著は1993年。これを初めて読んだときには、ポルノグラフィの歴史がこんなに豊かなものだということに目を開かされて、感激に近いものを感じたのを憶えている。権力と出版の物質文化、私的領域の成立とジェンダー、近代科学的な人間観という、歴史学現代社会論の中枢にあるスリリングな概念を駆使して、実証的に水準が高い研究論文がきら星のように並んでいた。

 いま読み直してみても面白かった。特に第4章、マーガレット・ジェイコブ「ポルノグラフィの唯物論的世界」は、例のごとく<面白いけど外している>という印象を持つけれども、この視点なしにポルノグラフィと医学の歴史を語るわけにはいかない。ジェイコブは「自然主義的ポルノグラフィ」と「唯物論的ポルノグラフィ」を、似てはいるが異なったものとして区別する。前者は医学や人間の科学研究にほぼ普遍的に随伴する「自然を規範とする」態度である。自然が規範であるなら、人間には生殖機能が備わっているのだから、性交も欲望も自然な営みであり、それ自体としては善である。この立場は中世や近代のヨーロッパにおいて、キリスト教的な人間観に対するアンチテーゼとして機能した。サドもこの手の議論の仕掛けをよく使う。一方ジェイコブがそれよりも重要だとする「唯物論的なポルノグラフィ」は、原子の無目的な運動こそが世界を作っているのであって、そこには道徳も宗教もない、という当時の危険思想に基づいて、目的と規範を持たない無際限な運動への衝動として性欲を捉えた作品である。そこには予定調和も物語もない。執拗な性行為の反復があるだけである。この唯物論的なポルノグラフィは、市場(出版のそれ)、自由な意見を交わすことができる公的領域、そして個人が孤独に文学を消費する空間としての私的領域という、近代の構造線となる重要な制度から直接に生み出された、近代を象徴する作品であるというのが、ジェイコブの議論である。

 壮大で面白い。いろいろなアイデアをスパークしてくれる。

 画像は18世紀末のドイツのポルノグラフィより「機械的性交」