必要があって、アナール派の大家の「気候の歴史」の導入部分を読む。文献は、エマニュエル・ル=ロワ=ラデュリ『気候の歴史』稲垣文雄(東京:藤原書店、2000)。若書きの書物だそうだけれども、素晴らしいリサーチと惚れ惚れするような議論の運びで、全部丁寧に読みたかった。
ル=ロワ=ラデュリは、20世紀前半の初期の不正確で印象論的なエピソードの断片から壮大な空理空論を作り上げた気候の歴史を、「空想的気候史」と呼び、より注意深く緻密なデータに基づくものを「科学的気候史」という。近代以降については、プロの気象学者による気候観測があるから、これを時系列データにするのはたやすい。それができない、たとえば中世においても、注意深く扱えば、気候の変動についての確固たる基盤を得て、科学的な気候史が可能である。
それなら、なんのために科学的な気候の歴史を研究するのか。ここで、著者は、その先達と袂を分かつ。マルク・ブロックの「みかけは極めてつめたくつきはなしたように見える文章の背後に、歴史学者が捉えようとしているのは人間なのである。人間まで行き着かない者は、しょせんは博識の職人にしかなれないであろう。よき歴史学者とは、伝説に出てくる人食い鬼に似ている。彼は、人肉の臭いをかぎわけ、そこに獲物がいることを知っている。」という言葉を引いて、その美しさをたたえる。これは歴史学者のカニバリズムを進めているわけではなく、むしろ美しいヒューマニズムにあふれている文章である。しかし、ル=ロワ=ラデュリはこれに異をとなえる。このブロックの言葉は、歴史学者の領域をあまりにも狭めていないかということだ。ル=ロワ=ラデュリは、これを否定しないまでも、せめて和らげ、捕捉するのがよいであろうという。「歴史学者とは、時間と古文書にかかわる人間であり、年代順に記録されたいかなるものも彼には無関係でありえない。」こうした基盤の上に立つと、歴史学者は多くの場合、ブロックが言ったようなあの好感の持てる人肉の好きな「人食い鬼」にもなれるし、そうあり続けるであろう。しかし、彼はまた、ある場合には、それ自体としての「自然」に関心を抱くこともありうるし、その古文書的な方法によって、「自然」のある特定の「時間」と、たとえば気候のリズムと最近の変動を世に知らしめることもできる。こうやって、厳密なデータに基づいて気候の歴史を再構成すれば、その成果は「おのずと人間の歴史に通ずるものである。」という。研究の第二段階は、気候は、もはやそれ自体のためにではなく、「我々のためにあるもの」、人間の生態環境として考察される。
ル=ロワ=ラデュリが厳しく戒めているものに、論点先取と循環論法でかかれた気候の歴史があった。例えば、私も読んだ事があるハンティンドンなどは、民族の移住は気候の変動によるものであるという断定のもとに、それに当てはまる事例を探しているという。ちょうど、少しだけ気候のことに触れた文章を書いていて、気候についてのデータもないのに、気温が上昇したからマラリアが流行ったとか断定していて、そこからまさしく循環論法で議論していたことに気づいて、自分のことを言われているような気がした。