脳科学とマルキ・ド・サド

今日は少し無駄話を。

しばらく前のTLS (Times Literary Supplement) を読んでいたら、Alva Noeという哲学者が、Bruce E. Wexlerというエール大の精神科の教授がMITから出したBrain and Culture: Neurobiology, Ideology and Social Changeという本の書評をしていて、その書評の中で面白いことが書いてあった。Alva Noe, “Product of the senses”, TLS, June 15 2007.

 近年の人間の「心」「性格」「道徳」「社会規範」などについての、いわゆる還元主義的な見方についての面白い指摘である。進化論者は、一夫一婦制に随伴する性道徳は進化の産物であるという。遺伝子学者や脳神経学者は、個人の性格や喜び・嗜好などの現象は身体的な基礎を持つといっている。この書物も評者も、還元主義的な立場を否定する立場になっているが、これが正しいかどうかについては、私にはもちろん判断する資格はない。(還元主義が正しいかどうかよりも「正しいとしたら/間違っているとしたら、私たちはどのように自己と社会を捉えたらいいのか」ということの方に興味がある。)

 面白かったのは、こういった説明をするサイエンティストやサイエンス・ライターと、それに耳を傾ける一般読者の双方が、この説明をして・聞いて「喜んでいる」という指摘だった。私たちの時代は、それまでは心の問題であり、個性の問題であり、人格の問題であり、道徳の問題であると考えていたことが、身体の問題であると発見して、それを話したり聞いたりすることを「楽しんでいる」というのだ。そう言われてみると、身の回りでもメディアの世界でも、たしかに思い当たるふしが沢山ある。全ての人ではないにしても、この話は人を喜ばせ・楽しませていると考えられるケースが多い・・・でしょう?

 いったい、性格は遺伝子で決まるとか、一人の人を愛することが子孫の繁栄に有利だとか、その手の話のどこが楽しいのだろうか? <なぜ>楽しいのだろうか? これはレトリカルな質問ではなく、歴史の話を考えている。The Pleasures of Reductionism 「還元主義の快楽」という書物が書かれるとしたら、中心は間違いなくマルキ・ド・サドになるだろう。サドの著作の中枢にあるのは、人間性の高級な部分―サドの関心で言うと宗教とか道徳とか―を唯物論で解釈しようという哲学的なプロジェクトだった。サドはこの著作が「読んで楽しい」と考えて、実際に多くの人はサドの著作を「楽しんだ」。