必要があって、トム・ハリス『羊たちの沈黙』菊池光訳(新潮文庫)を読む。以下の記事にはネタバレがあります。
ジョディ・フォスターが美人FBI捜査官を演じ、アンソニー・ホプキンスが恐るべき殺人嗜好を持つ天才精神科医ハンニバル・レクターを演じた有名な映画の原作。映画は原作に比較的忠実に作られている。作品として映画のほうが優れているかもしれない。この印象は、二人の役者の名演技に負う所が大きいだろうけれども。
二人の精神異常者が登場する。一人は既に言及したレクター博士。もう一人はジェイム・ガムという名前の男で、自分の性転換嗜好を満足させるために、女性を次々と殺して、死体から皮を剥ぎ、それを縫い合わせてボディ・スーツを作る変態性の性格異常者。彼の変身願望を象徴する、背中にドクロのような模様がある巨大なガが、小道具として非常に効果的である。二人の精神異常者のうち、ハンニバル博士のほうは、頭脳明晰で優雅な芸術愛好者、そして俊敏な動きで常人なら不可能なことをやってのける、一種のスーパーマンに描かれているのに対し、ガムのほうは、女装(女の皮膚を身にまとうのも一種の女装である)、捕らえた女性を殺すときの卑劣さ、溺愛しているプードルに対する馬鹿げた態度など、徹底的に否定的に描かれている。ガムが被害者の皮を剥ぎ、加工して縫い合わせるシーンを微に入り細をうがって描くことで、ガムへの嫌悪感はいっそう強まる。レクター博士も、厳重な警備をかいくぐって脱走するときに、警備員の顔の皮を剥いでいるのだが、その行為の現場そのものは描かれていないし、彼の殺人は芸術作品である。この、ポジティヴとネガティヴの鏡像ともいえる二人が、それぞれ好きな音楽を聴くシーンが挿入されていて、レクターは人を二人殺した直後にバッハのゴールドベルク変奏曲に陶酔し、ガムは、低俗なダンスミュージックに合わせて、半裸で女装して踊る。この映画は、ガムを対照にして、もう一人の性格異常者のレクターの魅力を、ことさらに強烈に描いている映画である。
残忍だが優美な犯罪者であり、鋭敏な観察力と人間への洞察を持つ天才。 精神医学者が、これほどのスーパーマンに描かれたことがあっただろうか。 レクターの時代の精神医学者、つまりフロイト派がアメリカの精神医学を席巻した1950年代、60年代に教育を受けた精神医学者が、人々の目から見たときの精神医学の全盛時代だったという主張を後世の歴史家がするとしたら、この映画は「証拠」の一つになるだろうな。 ネッド・ポーターは怒りのあまり悶絶死するだろうけれども(笑)。 あ、最後の一文は、一人か二人の読者だけを念頭においた、インサイダー・ジョークですので、皆さんは気にされずに(笑)