労働衛生と環境科学

 労働医学・労働衛生学の歴史を研究した書物を読む。文献は、Sellers, Christophre C., Hazards of the Job: From Industrial Disease to Environmental Science (Chapell Hill: The University of North Carolina Press, 1997) 著者は医学とアメリカ史で合わせて二つ博士号を持っていて、科学概念の分析も鋭いし、社会的な背景の説明もシュアーな印象を与える。 

 正直に言って、労働医学の歴史というのは、医学史の中でちょっとかびくさい領域だと思っていた。日本語で古い文献を読んで、そこにある露骨な英雄勝利者史観―先覚者たちの努力と闘いによって、労働災害や職業病を認めさせ、労働者の安全を保証する法的・制度的な仕組みが充実していく歴史が、正義感や義憤とともに高らかに謳われる歴史-に、少々辟易していた。イギリス風に言えば、労働党勝利史観というべきこのヒストリオグラフィは、確かに事態のある側面を正しく言い当てているかもしれないが、知のフロンティアとしての耐用年限を過ぎて久しい。

 これは、救いようがない無知に基づく誤解だった。昨日の本もそうだったけれども、今日の本を読んで、もしかしたら、労働医学の歴史は、医学史の中でいま一番スリリングな分野かもしれないと本気で思った。(機を見るに敏なあの人も、この人も、労働衛生の歴史を研究しているのはそういうわけだったのか・・・笑)

 20世紀初頭のアメリカにおいて労使対立が激化していく中で、職業病は企業側と労働者側の対立・交渉の焦点となった。人造繊維産業の二硫化水素中毒や、印刷工の鉛中毒などがこれにあたる。これらの病気に関しては、1920年代には既に、社会的な関心が深い医者たちの戦いを通じて、連邦政府を介して労使間の合意のようなものが形成されていた。ハーヴァードやシンシナティなどの医学校には、労働衛生学科も作られ、デュポン社などは染料の安全性を研究するために、自社で労働衛生の研究を進めていた。

 この科学的な衛生学の追及の中から、新しい、そして非常に重要なモデルが現れてくる。それは、例えば血液や尿の中の鉛の濃度を測ってみると標準よりも高いが、だからといって臨床的な症状を示すわけではないケースの位置づけをめぐる議論の中から現れてきた。どうやって、この「標準」を決めたらいいのだろう? どの数値以下なら「安全」なのか?労働衛生の仕事が、臨床例を治療し、その原因が労働環境にあることを認めさせることだったときは、臨床例を中心に学問を組み立てればよかった。新たに労働衛生学が引き受けたのは、患者がいないところで、正常と異常を区別する客観的な基準を定めるという、難問であった。しかも、鉛のように、そこかしこに使われている金属は、住民の尿を採集して、鉛濃度を測定し、その「平均」を測るわけにいかない。既にアメリカの住民には広く鉛が広がっている恐れがあるからである。

 1930年代にハーヴァードの労働衛生学の教授が取った方法は、非常に示唆的である。彼は、メキシコの辺鄙な片田舎に行って、そこで住民の血液の鉛濃度や環境の中の鉛の存在を調べた。この「原始的」な生活をする、資本主義と産業革命以前の暮らしをしているかのような人々の体内にも鉛は蓄積されていた。彼らが食べる魚やトルティーリャにも、鉛は発見された。しかし、その値は、現代アメリカ人の平均の1/3から1/2であった。その結果から、「自然状態」を「正常」と同一視して、許容可能な鉛の濃度が確定された。 

 この概念操作は、ものすごく大事なことをしている。 問題のコアだけ言うと、「過去の社会・辺境の社会を基準にして、患者の形をとって顕在化はしていない現代社会の<病理>を、科学的に測定する概念装置を発見した」ということである。 ポイントは三つ。 一つは、過去に健康の基準を置いたこと。進歩を信仰して、未来は常に現在よりも健康になるはずであるという前提のもとに行動してきた医学が、過去の方が健康だと信じたのである。 もう一つは、これを最先端のテクニックを使って「科学的に」証明したこと。ハーヴァードの教授が行ったのは、ロマンティックな反科学のノスタルジアではない。もう一つが、この全てが、患者ではなくて実験データから引き出された「世界観」であることである。 

 このモデルから、『沈黙の春』のレイチェル・カーソンへ、そして「環境科学へ」の道は一直線である。「労働衛生がなければ、カーソンはありえなかった」という著者の言葉を、少なくとも今のところは信じておこう。