スリランカのマラリア

スリランカのマラリア対策の言説を分析した論文を読む。文献はSilva, Kalinga Tudor, “‘Public Health’ for Whose Benefit? Multiple Discourses on Malaria in Sli Lanka”, Medical Anthropology, 17(1997), 195-214.

スリランカではマラリアは深刻な問題であった。1934年から35年の大流行では、当時の人口の2%にあたり8万人が死亡し、島の歴史における最悪の疫病といわれた。戦後の1945年にDDTの散布を中心にした根絶計画が始まり、1946年には患者276万人、死者1万2千人だったのが、1963年には患者17人に死者1人にまでマラリアを押さえ込むことができた。しかし、DDT耐性を持つ蚊の出現で、マラリアは息を吹き返し、60年代後半から70年代の前半にかけては、死者こそ一ケタ台にとどまってはいるが、13万人から53万人の間で、多数の患者が記録されている。

この論文は、マラリア対策をめぐって四つのタイプの言説が並存し、相互に反発しつつ影響を与え合っていたことを示している。第一の言説は、植民地主義と科学の言説である。これは植民地時代のマラリア学に由来するもので、マラリアを後進的な経済の原因であり結果であるとみなしていた。特に、植民地経営にとって重要になるプランテーション経済を阻害する要因とみなされ、実際の蔓延の状況というよりプランテーションにとって重要な地域に重点的に対策が施されていた。第二のものは、筆者が「左翼的」と呼ぶもので、担い手たちはイギリスに留学してマルクス主義を学んできた活動家たちであった。彼らにとって、マラリアに苦しむ人々の姿は、植民地に対するイギリスの経済的搾取に起因する人民の貧困を要約して象徴するものであった。彼らは科学的・生態学的というよりむしろ社会経済的な要因を強調した。第三のものは「国民主義的」なものであり、これは、マラリアを外部のインドから持ち込まれ、土着のシンハラ人の文明を衰退させたものとみなす視点であった。この視点によれば、マラリアの根絶は、外界から侵入した敵を滅ぼして土着文化の尊厳を取り戻し、島の民族的な統一を達成するための象徴であった。第四のものは、「農民の」言説である。これは、土着の医療などの農民の日常に根ざした文化体系の中で理解されているが、しかし上の三つのエリートの言説を選択的に取り込みながら変化してきた。病気の名前も、かつての伝統的な名前ではなくて「マラリヤワ」と英語を取り込んだ表現になってきているという。