未読山の中から、ソ連の社会衛生学についての論文を読む。文献は、Solomon, Susan Gross, “Social Hygiene in Soviet Medical Education, 192201930”, Journal of the History of Medicine and Allied Sciences, 4581990), 607-643.
20世紀の医学は、病人の身体やその物理的な環境に注目するだけでなく、より広い社会的な文脈で病気を捉える視点も持つようになった。ドイツでは、このような医学は社会医学と呼ばれ、その主導者にはアルフレート・グロートヤーンなどがいた。同じ時期のソヴィエトでは、社会衛生学 (social hygiene, Sotsial’naia gigiena ・・・私、ロシア語は全くできないのですが、こう書いてOKですか?)が医学教育における位置を確立した。むしろ、ソヴィエトの社会衛生学は、ドイツの社会医学に影響され、その後を追うようにして形成されたにもかかわらず、医学部のカリキュラムに組み込まれたり独立した講座として成立するのは、ドイツよりも早く、1922年にはすでに正式な講座となり、医学教育の中に確立されていった。
社会衛生学はロシア革命後の医学教育に再編の中で急速に台頭した。それまでの公衆衛生を担っていた「一般衛生学」は、実験医学と細菌学に傾斜し、生物学的な色彩を強めていたが、革命政府の公衆衛生委員長(というのだろうか?)であるセマシェコらは、一般衛生学を批判して、違うモデルの公衆衛生を提唱した。それは、自然科学だけでなく社会科学的な視点も含んだものであり、社会改革を通じて予防に重点を置いた医学であった。セマシェコの「医学は、自然科学と関係は持ちつつも、その本質と目標においては、社会的な問題を扱っているのである」という台詞は、社会衛生学の狙いを要約している。
この、ドイツの社会医学にならって、医療の範囲を広く定義したソ連の社会衛生学は、知的に新鮮な試みであると同時に、政治的な身振りでもあった。セマシェコらは政権を取ったばかりのボルシェヴィキ政権に非常に近く、ボルシェヴィキが志向する社会改革を医療分野で担う医学の一分科として社会衛生学を位置づけることにより、医学界内部での主導権を得ようとしたのである。
党と国家の支持を得た社会衛生学は、一般衛生学との権力闘争に勝利し、ロシアの医学教育の中で確固たる地位を築いていくが、その絶頂は長くはなかった。その絶頂期といえる1920年代においてすら、社会衛生学はソ連の医学生たちの間で人気がある科目ではなかった。当時の調査が示すところによれば、医学生は「予防」ではなく「治療」に携わることを望んでいた。これは、予防こそが医学の本質であるという新しい発想が受け入れられなかったという慣性の問題もあるが、革命による医学教育の民主化によって、インテリゲンチア階層出身の医学生の割合が低下して、労働者・農民階層出身の医学生の割合が上昇した結果、民衆の改善に力を注ぐ伝統を持つ前者のエトスではなく、医学を社会的上昇の手段と捉え、治療医学の英雄らしさに引かれる後者のエトスが、学生の間で支配的になったのかもしれないと著者は考えている。ちょっと面白い指摘である。
社会衛生学の挫折を決定付けたのは1930年の医学カリキュラムの改革であった。医学全体に社会科学のリテラシーを広めるという社会衛生学の意図とは裏腹に、この改革は分業・専門分化の原則に貫かれたものであり、社会衛生学は医学の単なる一分科になった。この挫折の背景には、20年代のソ連が直面していた急性伝染病の大流行などの緊急性がある問題に対して、社会衛生学が唱える社会改革を通じた健康状態の改善という長期的な対策はまだるっこいものに見えたこと、そして、社会問題に積極的に発言するという革命直後には党に歓迎されたスタンスが、スターリン政権にとってはむしろ邪魔なものになったのだろうと説明されている。
緻密なリサーチと構想力があれば、医学教育のカリキュラム改革という一見つまらなそうな話題から、こんなに面白いストーリーを引き出すことができるんだ。自分の不明を激しく恥じる。