必要があって、マックス・ノルダウの『変質論』の英訳を読む。文献は、Nordau, Max, Degeneration, introduction by George L. Mosse (Lincoln: University of Nebraska Press, 1993).
医者、文人でジャーナリストで、反ユダヤ主義と戦うシオニズムのリーダーの一人であったマックス・ノルダウの『変質論』は有名なテキストである。議論を要約すると、当時の医学・精神医学概念で、医学を超えて社会現象や政治問題を論ずるのにも盛んに使われていた「変質論」を、19世紀末の文芸・芸術批評にあてはめたものである。当時のヨーロッパ・アメリカが経験していた急激な近代化と都市化などに伴って、人間は神経衰弱・ヒステリーなどの神経症にかかりやすくなり、精神の健康を失いやすくなる。そして、当時の文芸や芸術でもてはやされている大家たちの多くは変質した精神の持ち主であるとノルダウは断ずる。明晰な思考ができなくなる神秘主義や、外界と調和できなくなるエゴマニアなどの神経症に罹ったものたちの文芸・芸術がもてはやされ、社会を蝕んでいるというのだ。その変質した文学者・芸術家のリストは壮観である。ボードレールやマラルメ、ニーチェ、ユイスマンスは言うまでもなく、ラファエロ前派、ワーグナー、トルストイ、イプセン、ゾラなど、世界史の教科書に出てくるようなこの時代の巨人たちが皆、「病気」であると槍玉に上げられている。
この要約でも分るように、このテキストはその上っ面だけ見ると、非常に足をすくわれやすい。保守的でヴィクトリアンな文芸の好みを持つ凡才で、作家としては二流だった評論家が、モダニズムを切り開いた偉大な作品に共感できずに罵詈雑言を並べたと考えたくなってしまうし、その側面は確かにあるだろう。
しかし、このテキストがそんな単純だとは誰も思わない。こう、うまく表現できないというか、うっすらとしか分らないのだけれども、医学化の問題、二つの文化の問題、変質論の射程の問題-変質論は下層階級だけでなく貴族階級をも批判する思想であったことはもっと強調されていい-など、とても大きな問題が潜んでいる。この時代に「科学」と「文学」という「二つの文化」(C.P.スノウ)がはっきりと乖離してきたことの象徴としてこのテキストを捉え、科学的な視点から見ると病気であることを誇りにする文学者と、文学が分らないことを誇りにする科学者の双方が現れるプロトタイプになったととることもできないだろうか。
モッセによるイントロダクションは出色。その中から引用を一つ。ノルダウの死の報を受けたときに、かつてはヨーロッパにその名がとどろいていたが、既にその星は沈んでいた批評家を悼んで、あるイギリスの小説家が残した言葉。
「芸術が正気を失い、文学が生を見失ったとき、人々は『変質論』の預言者を思い起こすことになるだろう」
ノルダウは、もし進化のロジックが働かなかったときに、この社会がどうなるかを予言して、街には自殺者のクラブがあふれ、その隣には自殺を幇助するクラブができる。酒屋の変わりに麻薬のバーができて、恐怖で広場を歩いて渡れない人を助ける職業が生まれ、恐れにおののく人々を安心させる職業も生まれるという予言をしている。ノルダウが言っていることが正しいとは全然思わないが、彼の予言が正鵠を得ていると思ってしまうのは私だけでないと思うんだけど。