ホッテントット・ヴィーナス


19世紀のロンドンとパリで「ホッテントット・ヴィーナス」として見世物になった南アフリカのコイコイ人の女性、サールタイ・バートマン(と読むのかしら?)の研究を読む。文献は、Holmes, Rachel, The Hottentot Venus: the Life and Death of Saartjie Baartman Born 1789-Buried 2002 (London: Bloomsbury, 2007) 活字も大きいし、註も少ししかついていないし、本を開いたときには俗っぽい本かと思っていたけれども、リサーチも分析も非常に優れた一般向けの歴史書だった。最近のイギリスで陸続と現れている、学者向けではない優れた歴史書のひとつ。

この書物の主人公であるバートマンは、1789年に南アフリカに生まれたコイコイ人の女性。母親と父親を幼少の時になくし、ケープタウンの別のコイコイ人の家で奴隷として乳母と女中の仕事をしていたが、1808年にイギリスで奴隷制が廃止され、彼女をイギリスで見世物にしようと企んだイギリス陸軍の軍医とコイコイ人の主人に連れられて、1810年に故国を離れてロンドンにやってくる。「ホッテントット・ヴィーナス」という触れ込みで、ロンドンの繁華街の見世物小屋で、彼女は体にぴったりと貼りつくようなレオタードを身にまとい、象牙のブレスレットやダチョウの羽根などのもっともらしいアクセサリーをつけて、アフリカの風景を描いた書割の前で歌ったり踊ったり楽器を演奏したりさせられ、一躍有名人となる。ホッテントットに特有であるとされた巨大な尻が本物かどうか客に触らせていたその見世物は、当時の奴隷解放論者や道徳家たちを憤激させ、奴隷解放論者のマコーリー(有名な歴史家の父)は、彼女を解放して祖国に帰らせるために人身保護令状を得ようとするが、1810年の11月に彼女を直接審理した結果、彼女は祖国に帰るよりもイギリスに滞在することを選んだため、この計画は頓挫して彼女を利用した興行は継続する。皮肉なことに、彼女の自由意志に基づく契約で保証された報酬を受け取る移民労働者として、自らを見世物にすることが法的に認められたのである。

その後彼女はフランスにわたり、ナポレオン没落時の混乱の中のパリでもホッテントット・ヴィーナスとして興行を続ける。しかし、パリで彼女を待っていたのは、単なる見世物としての注目だけではなかった。当時の帝国主義と比較生物学の中で形成されていた人種の生物学の貴重な「標本」として注目された彼女は、フランスの自然史博物館の巨星であったキュヴィエらによって観察されることとなる。自然史博物館の動物研究者たちによって、一糸まとわぬ姿にされた姿を描かれただけではなく、長くヨーロッパで言い伝えられていた「ホッテントットの女性の陰唇は肥大している」という説が正しいかどうかを確かめるために、彼女の性器が観察される(彼女は当然強く抵抗した)。さらに、彼女が翌年に死亡した際には(死因はよく分っていないが、キュヴィエはアルコール中毒による体力消耗ではないかと推測している)、彼女の死体は解剖され、性器の型がとられ、脳や性器はアルコール漬けにされて保存され、死体を煮て肉を外し全身骨格が保存され、博物館で一般公開されることとなった。

フランスが所有していた彼女の「標本」は、アパルトハイトを廃止した後の南アフリカ政府の請求により2002年に返還され、現在は生まれ故郷の墓に安置されているという。

画像は色々な種類がたくさんあるけれども、これが一番やさしい表情かもしれない。