善存(Well-Being )の社会科学


善存(Well-Being)の概念を多角的に論じた論文集に目を通す。文献は、Haworth, John and Graham Hart eds, Well-Being: Individual, Community and Social Perspectives (Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2007)。

5年くらい前から、イギリスやアメリカの社会科学でwell-being という概念がよく使われているように思う。 私が気づいたのがそのくらいだから、プロの学者の間ではそれよりだいぶ前から使われていたのだろう。幸福happinessとか、その反対の惨めさmisery などの、通常はかれないと思われていることがらの指標化もよく聞く。(このあいだ読んだニュースでは、アメリカで「惨め指数」が一番高い街はデトロイトだそうだ。)これが日本に入ってくると、「惨め指数」という言葉はきっと流行語大賞を取るんだろうな(笑)

これまでの社会科学の視点が、「ダメージ」に着目して、人を不幸にするものは何か、それをどうやって減らすかという問題を据えていたのに対し、この書物で提起されている視点は、人の well-being をどう高めるかという視点である。(例によって日本語の選択が難しいので、well-being という英語にそのまま漢字を当てはめて善存といわせてもらう。)善存や幸福(happiness)という概念は、その本質からして主観的なものであり、個人によってその基準は違うが、だからといってそれを学問として問題にすることがまったくできないわけではない。むしろ、客観的に測ることができる指標だけを問題にする態度からこぼれ落ちてしまうものが大きいという出発点は理解できる。ただ、研究者の印象が良かったり価値観に合った社会を善存度が高いといい、そうでない社会を低いと言って批判する、ただのイデオロギー論にならないために、どうやって学問性を担保すればいいかということは、私にはよく分からない。

たとえば「健康」を例にとると、最近は「主観的健康」という概念が使われているのを眼にする。人々に、あなたは健康だと思うか、5段階で自己採点してくれというものである。 ご存知のように、平均寿命をはじめほとんどの健康指標が最も高い日本だが、主観的健康度はOECD諸国の中では下から二番目とか六番目とか、健康指標で日本が普通いる位置にいない。 周りを見ると、ポルトガルとかハンガリーとかスロヴァニアとか、普通は隣人だと思っていない国に囲まれている。 

一方、健康指標は先進国の中ではそれほど目だってよくはないアメリカが「主観的健康」は一番高くて、その二位、三位あたりも客観指標は大してよくない国で、フランスとかカナダとかが健闘している。 こう考えると、これは、健康ではなく、楽観的性格や「気の強さ」を測っているとしか思えない(笑)しかし、実は、それを含めて主観的健康だということだってできる。 客観的指標は悪くても、現実に身体は病気に蝕まれていても、明るくしていることは、それじたい望ましいことではないのかと開き直られると、確かにその通りだ。 日本は、客観的健康度が最も高く、主観的健康度はまともな先進国の中ではダントツに低いということは、色々なことを考えさせてくれる。 

健康は疾病の不在のみを意味するのではないことは分かるし、医療の大きな目標には、疾病の治療だけではなく個人の善存を回復すること・あるいはそれを高めることであるいうことは分かる。たとえば終末期医療において、疾病が治らないからといって、医療を放棄したり、測定できる指標を改善することだけを目指すのではなく、患者の善存を目標にするべきだ、あるいは疾病が存在する範囲内で「生活の質」を高めるべきだという議論は、納得する。しかし、この患者の善存って何だろう?それを、患者の「満足」という消費主義的な概念で置き換えていいのだろうか?

この書物では、「健康のための芸術」が論じられている章がある。1950年代のマンチェスターで、患者の生活の質を高めるために音楽・絵画・文学・彫刻などの芸術を鑑賞したり作製したりする運動があって、現在ではイギリスの医療政策の中で一つのエスタブリッシュされた地位を占めている。医療の目標が患者の善存を回復することであるなら、芸術によって生活の質を高めることは、医療の一部になることができるではないか、というロジックである。日本でも医療の現場に芸術を持ち込もうという運動は一部で始められていると聞いている。これには保険が効くのだろうか。たとえば末期がんの患者にトルストイの『イワン・イリッチの死』だとか、黒澤明の『生きる』を鑑賞させるとしたら、それは保険点数がつくのだろうか?

画像はOECD Health より、主観的健康指標。 ちょっと古くて、2001年に出版された Health at a Glance という小冊子から取った。