マーティン・ケンプ『レオナルド・ダ・ヴィンチ』


必要があって、レオナルドについての入門書を読む。マーティン・ケンプ『レオナルド・ダ・ヴィンチ』藤原えりみ訳(東京:大月書店、2006)

私はレオナルドの研究者ではないから、確かな判断かどうか自信はないけれども、私が読んだレオナルド論の中でいうと、ケンプの仕事は、自然の探求者としてのレオナルドから出発して、そこから有名な芸術作品を解釈していくところに特徴があると思う。アナクロニスティックな現在の二分法を敢えて使うなら、科学者としてのレオナルドから出発して、芸術家としてのレオナルドを論じているといえる。このことは、レオナルドを理解する鍵として、有名な草稿集を使えるということを意味する。レオナルドが完成させた絵画は、その名声に比して非常に少ないのに対し、草稿のほうは現在残っているだけでも6000葉以上あって、単純に量的にいって、草稿のほうがレオナルドをとらえやすいことはいうまでもない。これらの草稿を深く読み込んでレオナルドの精神世界に入り込んでいくケンプの研究はファンが多く、私もその一人である。

有名なケネス・クラークのレオナルド論は、私はもちろん好きだけれども、美術館の館長だけあって、どうしても完成された絵画が話の中心になっている。その最たるものが、完成させた絵画が少ないことを主たる理由として、アルプスを越えてフランスに向かう老いたレオナルドの心の中には幻滅と挫折感が去来したに違いないとまで推測している部分である。 偉大な美術史家に対して私がこんなことを言うのはそれこそ不遜だけれども、この「自分に失望した老レオナルド」というのは、私にはすごく違和感がある推測である。 彼が自分の天才を注ぎ込んだのは、あの膨大な草稿だと私も思う。  

ケンプが描くレオナルドの特徴は、三つにまとめることができるだろう。まず、自然の多様な現れの背後に合理的な「原理」「法則」を呼べるものを追求しようとした合理主義、第二に、この探求は経験に導かれるべきであるという経験主義、そして第三に、この経験を獲得する手段としても、それを理解し整理し再構成して人に伝える手段としても、「視覚」が優位を占めるべきであるとするという視覚中心主義である。この三つの思考モデルの組み合わせは、レオナルドの次のメモに凝縮されている。

「目こそが、世界の美しさを受け止めると考えられないだろうか。目は天文学をつかさどり宇宙の構造を描き上げ、あらゆる人間の技術を導いては修正を施す。目は人間を世界のあらゆる地域へと案内する。また数学をつかさどる貴公子である。(中略)目は自然に勝利する。自然を構成するものは有限であるが、目が手に応じてなす働きは無限であり、そのことは、画家が、動物や草木や風景に無限の形を与えるのを考えれば明らかだろう。」

レオナルドが数十年にわたって断続的に仕事を続けた解剖スケッチにも、この三つの思想は現れている。レオナルドの解剖スケッチは、現代の解剖学者たちに言わせると、「意外に」不正確であることで有名である。これは、動物の解剖をもとにして人間のそれを想像して描いたものもあるという理由もあるし、腐敗しつつある死体を切り開いても、解剖図譜で見るように臓器や血管がくっきりと浮き出るように分かるというわけではないという理由もある。(後者は、お医者さんにとっては当たり前かもしれないのですが、身体の中といえば、解剖図譜か、せいぜいプラスティネートされた「人体の不思議展」しか見たことがない一般人-その中には私も含まれますけど-にとっては、言われてみないと気がつかないことです。)

しかし、レオナルドの解剖スケッチの目標は、写実そのものではなく、自然が働く原理や身体の機能を分析することであったことに注意しなければならない。身体の臓器や部分が持つ機能、それらが運動するメカニズム、そういった機能や運動の背後にある自然の「原理」を見て取り、その原理が表現されるような仕方で人体を表現することがレオナルドの一貫した目標であった。レオナルドとその同時代人が理解していた人間の身体の各部の機能や、身体を維持し動かす原理は、現代のそれと大きく違う。その「間違って」理解された原理を解剖図に描きこもうと思ったことが、レオナルドの描写が「不正確」であった理由である。だから、たとえば首の骨を描くときに、レオナルドは、それぞれの骨の形をよりよく見きわめられるように、個々の骨と骨を離して、本来の場所から少しずらして示し、その後で、接触することによって隠されてしまう部分以外は、最初の状態と異ならないように再び組み合わせることを心がけている。レオナルドにとって、人体の内部のスケッチをすることは、写実ではなく、再構成して三次元的に表現し、その立体に働いている原理を分析することであった。それは、一つの推理であり、知的冒険であった。 

このような意味で、レオナルドの解剖スケッチと、彼の絵画は、同じゲームをしているのである。リザ・デル・ジョコンドという名前のフィレンツェの絹織物商人の妻その人を見たときに、彼女が『モナ・リザ』が我々に与えるような深い思索や超越の感覚を与えるとは誰も思っていないだろう。(いや、そりゃ、美人だろうけれども、きっと、ただの美人だろう 笑) 解剖図にしても、『モナ・リザ』にしても、個別の外観を正確に写し取ることでなく、その背後に隠されている理想的な形態を純化し、それが持つ「原理」を表現しようと思ったのである。 

画像は、初期の解剖スケッチ。 イタリアに来たデューラーが模写した(あるいは模写の模写をした)ことで知られている。