シャトーブリアン『ルネ』

未読山の中から、フランスの小説家シャトーブリアンの短編『ルネ』を読む。同じアメリカ新大陸に設定されたもう一つの短編『アタラ』とともに、昭和十三年の畠中敏朗訳で岩波文庫に収められている。

満たされない狂おしいような思いに懊悩して社会に背を向ける若者(ルネ)の姿を描いたもので、『若きウェルテルの悩み』とともに、出版当時はロマン主義を代表する作品として若者に絶大な人気があり、多くの模倣者が出たという。ルネは生まれるとすぐに母と父を次々と失い、姉のアメリとともに残される。何とはわからない苦しみをかかえて、彼は人と社会を避けて彷徨し、古代の廃墟の中に一人座し、スコットランドの荒涼たる風景の中にたたずみ、人里離れた寓居を求めるが、気持ちが一時軽くなるにせよ、その寂寥感はいやされず、ついに自殺を思い立つにいたる。しかし、姉のアメリは手紙からその目論見を見抜き、彼と一緒に暮らし始めるが、暫くすると、彼には理由を話さぬまま修道院に入ってしまう。アメリは修道院に入る儀式で、弟のルネに対する近親相姦的な恋心が、自分が修道院に入る理由であることを明かし、衝撃を受けたルネは、ルイジアナにわたってインディアンたちが暮らす場に近いナッチェズで残りの人生を暮らすこととなる。

 印象に残った節を抜書きしてみました。

昼間は森にいたる広いヒースの野をさまよいました。私の夢想には何の大したものも必要ではありませんでした。目の前に風が追う落ち葉、葉の落ち尽くした木立の頂に煙の立ち上る子や、北風のそよぎにふるえるブナの木の苔、一つ離れて立つ岩、しおれた葦のつぶやく荒涼たる沼。遠く盆地の中に立つ村の鐘楼は、たびたび私の目を惹き、頭上を飛んでいく渡り鳥の群れを見送ることもしばしばでした。渡り鳥の飛んで行く見知らぬ国や、遠くの土地を心に描いて見、私もあの翼の上に乗れたらと思いました。隠れた本能が私を苦しめ、自分みずから一個の旅人にほかならぬのだと感じていました。しかし天の声が私にこう言うように思われました。

「人よ、汝の移住の時はいまだ来たらず。死の風の吹き起こるを待て。その時こそは心の望む見知らぬ国に向かいて、汝の翼を張るを得るべし。」

速やかに吹き起これ、ルネを他の生命へと運ぶ待望の嵐よ。こういって、私は大股に歩みました。顔を日と燃え立たせ、風に髪の唸りを聞き、雨をも霜をも感ぜず、恍惚とし、苦悩し、あたかもわが心の悪魔に憑かれたかのように。

夜、北の風があばら家を揺り動かし、瀧のような雨が屋根を叩き、窓越しに、波を耕す蒼ざめた船のごとく、積み重なった雲に畝をつけて行く月を眺める時には、私は、心の奥に生命の力が二倍にも強くなるように思われ、幾多の世界を創造する権能さえ持ちうるように感じました。ああ、私のこのとき抱いていた激情をわかつべき女性がもしあったならば。おお、神様、もし貴方が私の願いどおり、一人の女を与えてくださっていたなら。われわれの最初の父にそうして下さったように、もし私自身から作り給うた一人のエバを、手にとって、私にもたらして下さったら・・・神の手になる美しきものよ、私はおん身の前に跪き、おん身を両手に抱いて、わが生の残りをおん身に捧げようと永劫の神に願いたかったのに。

・・・主人公は、最終的にはいったい何をしたいのかよく分からないけれども(笑)、まあそれはいい。神に比すべき創造者になるというプロメテウス願望と、自分の分身(笑)を作りたいというような願望と、その女を愛したいという近親相姦的な欲望が、心の中で渾然一体となって嵐のように吹き荒れているのが分かる。これを読むと、『フランケンシュタイン』との響きがすごく感じられる。