メチニコフと免疫学の起源

メチニコフについての本格的な研究書を読む。文献は、Tauber, Alfred T. and Leon Chernyak, Metchnikoff and the Origins of Immunology: from Metaphor to Theory (Oxford: Oxford University Press, 1991).メチニコフの白血球/食細胞の概念の起源と、その背後にある生物にとって「自己」「他者」とは何かという形而上学的な問題、そして、その形而上学的な問題を科学的に扱うとはどういうことか根本的な問題を吟味した必読の傑作。

メチニコフの食細胞はまず、炎症という現象を白血球が細菌と戦う防衛機構として理解しなおすという、細菌学の問題として議論された。しかし、その起源は、無脊椎動物の発生を進化論的に解釈するという、発生学と進化論が出会った知的空間にある。そこで、個体の中に不調和な部分があり、それらが互いに個体の中で争っているという、ダイナミックにして不協和なものとして個体の「統一」が理解された。何よりも重要なのは、これまで「生物が自己を防衛するために病気と闘う」というような、目的論的な比喩として理解されてきた機能を<科学的に>論ずるためには、どのような具体的な問いを立て、どのような実験が行われたのかという<比喩>と<科学理論>の間の重要な溝に、メチニコフがどのように架橋を構築したのかを分析している部分である。科学的な理論と比喩の間に厳密な区分をつけることがどの局面でもできるわけではないという指摘はそれ自体としては正当であるが、科学のカルスタ系の仕事の中には、この指摘を誤解して、科学を厳密な学問として扱うべき歴史の問題を棚上げして、通俗向けに書かれた科学書の<たとえ話>ばかりを分析する傾向があり、特に日本のこの傾向の議論には時として苛立つことがあったので、このような本格的な議論は嬉しかった。科学理論と比喩の境界は判然としているわけではなくて、現実には両者はあいまいである。だからこそ、ある言説の比喩的な側面と、科学理論としての「ハードな」側面は、どちらも同じだけの注意を持って吟味しなければならないというのは、私には自明なことに思える。特に、科学者共同体の中でその価値が認められて政策に反映され、公的なチャンネルを通じて人々に「比喩的に」理解される言説については、これが肝要だと思う。

・・・つい、自分のリサーチのことを考えていて話がそれました(笑)