土木学会編『日本土木史』(東京:岩波書店、1936)からのトリヴィア。
港として適している地域は良い飲料水を得にくく(厳密にはなぜだろう?)、住民は飲料水に苦労することが多かったことは良く知られている。また、船が寄港したときに飲料水を提供できない港は敬遠されがちであり、飲料水の確保は港としての成功を左右していた。
山口県の阿武郡の越ヶ浜(現在は萩市)は、漁船集中の要津だが、飲料水絶無のため、住民はみな近き山中に水を求めていた。しかし、山中の水源までの道のりは、遠きは八、九丁におよび、毎日数度の水汲みは家業のわずらいであった。しかも長き慣習で、水汲みは年若い嫁女に課せられる仕事であったので、いつしか「嫁泣き」の名さえ生じ、この浜に嫁入りするのを厭うもの往々あるに至った。そこで、安政5年に水道の敷設をもくろみ、明治にいたって馬鞍山に水源貯水池をもうけ、陶管七丁を埋設して街中に通じた。こういう経緯で造られたこの水道は「休労泉」と名づけられたという。これはグーグルして仕入れた知識だけれども、この水道を引いたのは、吉田松陰の兄である杉梅太郎の功績だろうだ。杉が明治2年に「民治」という名前を主君から賜ったのは、きっとこれと関係があるのだろう。