イミュノ・ヒストリーのメモ02 大正期徳島の赤痢・子供の排便・ハエ取り紙

村島鐵男『赤痢予防ニ関スル件報告』(東京:内務省衛生局、1926)

大正期に入って徳島県で多数の赤痢患者が現れ、患者数でいうと多い年の1915年、1923年、1924年には県内合計で1,000人を超える患者が現れ、死者数も毎年100人を超え、1923年には438人の死者が出ていた。それに対応して、県の衛生技師の村島が統計的な調査、病院と流行地の調査と防疫の実施、さらには採集した菌型を駒込病院院長ですぐに東大教授となる二木謙三に鑑定してもらうなど、本格的な調査研究に基づく報告である。

 

 

明治期と大正期・昭和期の感染症対策の重点の変化をよく伝えている。明治期の対策の中心をなした、患者の隔離と伝染病院への収容が重要であるという考えももちろん表明されている。しかし、それ以上に国民の生活の指導という側面が強い。赤痢には保菌者がいて長期にわたって排菌するので、これをすべて隔離施設に収容することは不可能であるという当時の日本の医学衛生の考え方が反映しているのかもしれないが、たしかなことは分からない。生活の指導の中では、生活の中の習慣や行動の指導という方向と、生活の備品の変革という方向を持っている。前者では、赤痢患者の便から蠅に媒介されて感染するという考えに基づいて、便壺の消毒や子供に対する野糞の禁止などが挙げられる。後者では、飲食店や一般家庭におけるハエ取り紙の設置、清潔な飲料水や調理の用水を確保するために、水道や管井などを設置することなどが挙げられる。

 

この時期の日本の赤痢は基本的に幼児の病気で、死者のうち5歳以下が半分以上、10歳以下を入れると90%を超えるから、子供の生活の指導も重要になる。その中で子供の野糞について、「農村にありては小児はほとんど常に庭先にて排便し、ために病毒を散蔓する」と記述されていた。もう一つ、ハエ取り紙で、これは私も街の八百屋にあって、ハエがこびりついている風景に不潔感を感じた記憶があるが、このハエ取り紙で一枚につき平均で800匹以上の蠅が捕殺されたという数字があって、私の記憶にあるハエ取り紙より大きなものなのかしらという単純で素朴な疑問。