貝原益軒、小野蘭山、畔田翠山ら、江戸時代の本草学者たちの著作を紹介した書物である。本草学というのは、ヨーロッパのマテリア・メディカ(薬材学)とよく似ていて、薬効を持っていて薬の材料になる動植物・鉱物などを列挙して説明する学問である。日本でもヨーロッパでも、薬効中心の記述から、自然界の事物自体を記述する自然誌・博物誌(natural history)になっていく。このあたり、専門家は色々な議論をしているのだろうけれども、私は不勉強で知らない。
近世日本の本草学のマスター・テキストは明の李時珍が16世紀の末に現した『本草綱目』である。1000年以上も続いた本草学の中で蓄積された知識を整理して、そこに記されている事物が何を指すのかを改めて特定するこの書物は、すぐに日本でも注目された。そこで問題になるのが、書物はそれ自体を日本に持ってくればことたりるが、薬用植物などはそうはいかないことである。そのため、現実の世界に存在する「物」と、書物の世界に現れる「名」を対応させる「名物学」と呼ばれた。その名物学は、一方で膨大な古典の典籍に現れる「名」を丹念に研究する文献学の方向を取り、もう一方ではフィールドに出て「物」そのものを実際に観察し吟味する方向を取った。この二つの方向はしばしば同一の著作において融合していた。そして、同一の「物」(たとえば「蝶」)についての、さまざまな方言での呼び名を集め、それとともに地方によって異なるその物の使い方・利用の仕方などを収集するという民俗学に近い方法を取っていた。この著作では、柳田国男の民俗学の起源が江戸の本草学にあると再三示唆されている。特に、享保の改革の殖産興業政策と直接に結びついて、幕府や藩が組織した本草プロジェクトが展開し、それに刺激されるように民間や地方の個人の努力による本草学が18・19世紀に花開く。
ちょっと微妙な問題だけど、書いておこう。本書が書かれた当時の日本の生物学史研究に対する批判というか、悪い言葉を使うとあてこすりに近いものが、本書には散見する。具体的にどのような経緯があったのかは知らないが、当時の日本の生物学史研究が、まさに本草学そのままに、ダイナミックな博識を列挙する杉本の視点を受け入れなかったとしたら、それは非常に不幸なことだし、杉本にしても、医学史や科学史の概念分析の方法を少しでも取り入れれば、この書物にはずっと深みが出ただろうに。