20世紀日本の薬学と和漢薬の問題

日本の民間薬や売薬についても、ヨーロッパの薬のみで集中しようという動きはなかった。むしろ、和漢薬を集めて、その効用と効果を人々に教えることが盛んに行われていた。薬剤師の資格を取った人々は、伝統との連続を重んじて、和漢薬を集めてその効果を記した書物を書いた人々であった。小泉栄次郎は薬剤師の資格を取り、各地の医学校で講義などをした人物であった。江戸時代には形成されていた、薬に関してのフィールドワークと、それに関する書物の知識を両立させることを知っていた人物であった。彼は西欧医学と並行して、漢方医学の価値を重んじていく役割を果たした。彼の『和漢薬考』は、1893年に刊行されたのち、1909年、1922年、1924年と拡張していくという大きな貢献をした。医師の中でも、日本の売薬や民間薬の価値を高め、当時の日本の西欧医学との連続性を主張する人々もいた。『日本内科全書』という医学体系は、日本の近代医学が一つの安定を示した全集であるが、そこに富士川游が投稿した『民間薬』は、西欧と日本・中国の薬に関する知識が共存することを主張している。貝原益軒の『大和本草』をはじめとして、50点余りの写本や書籍から民間薬を集めたものである。

生理学や病理学などの西欧医学を学ぶことと、和漢薬の伝統を学ぶことは、比較的安定した形で成立していた。そもそも、西欧の医学の薬そのものが、西欧の学術と文明だけに基づいていないという事実は、ヨーロッパの医学者や薬学者たちもよく知っていた。カンファーや大黄はアラビア医学から、水銀はインド医学から、キニーネ吐根などは新大陸から取り入れたものである。日本においても、長井長義 (1845-1929) はベルリンに留学して、丁子油からオイゲノールを、バニラ豆からバニケンを抽出する技術をマスターした。日本に帰国してからも、麻黄から有効成分を抽出してそれをエフェドリンと名付け、大量生産が可能であることも示した。このように、伝統的な薬材に化学的な加工と抽出を行って、現代的な医学と薬学の枠組みに取り込むことが必要であった。

生理学や病理学に関する原理的な議論には触れていない。ただ、「溺死」「驚死」「凍死」「卒死」などに関して、アルコール、刺激物、熱などによって刺激するという民間薬には触れている。

 

小泉, 栄次郎. 和漢薬考. 復刻版 edition, 生生舎出版部, 1972.

富士川, 游. 富士川游著作集5. 思文閣, 1981.

日本薬史学会 et al. 薬学史事典. 薬事日報社, 2016.