パラケルススの無邪気

パラケルススの勉強が続く。アレクサンドル・コイレのパラケルスス論を読む。文献は、『パラケルススとその周辺』鶴岡賀雄訳(東京:書肆風の薔薇、1987)

アレクサンドル・コイレはフランスの偉大な科学思想史の先達で、学生時代によく読んでいた。才気走ったフランスの学者の特徴かもしれないけれども、不用意に決定的な判断を下してしまうくせがあるのだろうか。ガリレオについても、ガリレオはプラトニストだったという解釈をぶちあげ、有名な斜面の実験を実在しなかったと決めつけて、それからしばらくして、アメリカの愚直な学者にガリレオ自筆の実験のノートを発見されるという屈辱的な目にあった。この論文でも、いかにもコイレらしいというか、フランスの知識人らしいというか、たぶん不正確だけれども、歯切れがよくて事態の本質をスタイリッシュに言い当ててている一節があった。パラケルススの新語趣味についての洞察で、パラケルススは、「アルケウス」「イリアストル」といった新語を作ることが多かったことも知られている。ドイツのパラケルススの碩学によれば、この一つの理由は、当時の学術用語であったラテン語・ギリシア語から、ドイツ語に移さなければならなかったからだということになるけれども、コイレによると、以下のようになる。

[パラケルスス]の説くことの半ばまでは、奇妙な述語のおおいをまとわされた民間信仰にすぎない。彼はそうした述語を、ラテン語やギリシア語の語幹や語尾を用いて、それが見当違いのラテン語などでも一切おかまいなく、子供のような無邪気さで発明していく。同時代のライバルたちの衒学的な用語法に対抗するのに、それに輪をかけてちんぷんかんぷんな用語法をもってしたのである。

「見当違いのラテン語の新造語を子供のような無邪気さで発明する」・・・パラケルススを崇拝するドイツの偉い先生たちが聞いたら怒るかもしれないけれども、なるほどね、後世には悪魔の術を学んだといわれたパラケルススが、「子供のような無邪気さ」か。 意外に本質的かも(笑)