ファウストとパラケルスス

必要があってユングパラケルスス論を読む。文献はC.G. ユングパラケルスス論』榎木真吉訳(東京:みすず書房、1992) 

「医師としてのパラケルスス」と「精神現象としてのパラケルスス」という1940年代の二つの講演をもとにしたユングの論文を訳したもの。後者は英訳からの重訳が講談社のα新書から出ていて、そちらのほうが手にはいりやすいが、こちらはドイツ語からの訳で、断然わかりやすい。

「精神現象としてのパラケルスス」で、ゲーテファウストパラケルススが似ているというユングの議論をもう一回辿ってみる。ファウストのモデルがパラケルススだというのは、さすがに私の記憶違いだったというか、少なくともユングはそうは言っていない。(ファウストの「モデル」という言葉が頭に残っているような気がしているんですが、どの本で読んだのか忘れてしまった・・・)ユングの議論は、パラケルススが無意識という現象を正しく(つまりユングのように)理解したと同じ概念を使って、ゲーテファウストの主たるストーリーを構築したというものだった。ユングは、パラケルススの錬金術の重要な概念である<メルジーネ>という半人半獣の水の精を取り上げ、これがインド神話などにも見られる<アニマ>の理解だという。この水の精で変容をつかさどるアニマを具体的な女性の存在に投影して造形されたキャラクターが、ファウストのグレートヒェンでありヘレーナであるというのがユングの議論だった。 意地悪な言い方をすると、パラケルススゲーテの『ファウスト』のどちらも、ユングが発見した人間精神の原理と同じことを言っているというもの。・・・正直言って、この議論を歴史の本で取り上げるのは、ちょっとリスクが高い。 

「医師としてのパラケルスス」は簡潔でわかりやすい伝記だった。錬金術は、あつかう物質を変容させ純化するだけでなく、その操作を扱う錬金術師の精神を変容させる。 精神を鍛錬して変容させるという意味で、「錬金術は一種のヨーガなのである」というのは、もちろんユング節が全開して炸裂する台詞だけれども、ポイントを突いていると思う。これを支持する史実を見つけられるだろうか。